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無量寿仏の名を持て [『観無量寿経』精読(その81)]

(2)無量寿仏の名を持て

 これまで釈迦がこの『観経』で説いてきたのは、まず定善、すなわち「慮(おもんぱか)りを息(や)めてもつて心を凝ら」し阿弥陀仏やその浄土を観るという行であり、次いで散善、すなわち「悪を廃してもつて善を修す」という行でした。そうした行を修めることにより往生できると説いてきたのです。定善にせよ散善(三福)にせよ、行者が善をなすことにより往生できるという教えであり、それを裏返せば、そうした善をなしえない悪人は往生できないということになります。ところがここにきて南無阿弥陀仏を称えるだけで、悪人も往生できるといわれます。これまでにない新しい教えが突如あらわれたわけで、人を戸惑わせるに十分です。
 で、多くの注釈家はこの称名念仏による往生は方便の説にすぎず、あくまでも定善・散善の教えが『観経』のメインであると考えました。ところが善導はこの通説を敢然と退け、念仏往生にこそ『観経』の真意があると見たのです。これは大胆不敵な説といわなければなりませんが、善導がその最大の根拠としたのが、先回りになりますが、いわゆる流通分(るずうぶん、結論)に出てくる次の一文です。「仏、阿難に告げたまはく、なんぢよくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはち無量寿仏の名(みな)を持てとなり」。これは経の最後に阿難が教えの要点を尋ねたのに対して釈迦が答えたことばであり、ここに『観経』のエッセンスがあるというのです。
 善導はすでに三心釈のなかでこの立場を明確に示していました。「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、時節の久近(くごん)を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼誦等(らいじゅとう、五正行のうち称名以外の四、読誦・観察・礼拝・讃嘆供養)によらば、すなはち名づけて助業とす。この正助二行を除きて以外(いげ)の自余の諸善は、ことごとく雑行(ぞうぎょう)と名づく」と。ここで往生の正定の業として、はっきり称名が上げられ、そしてその根拠として「かの仏願に順ずるがゆゑに」と言われていました。この文を読んだ法然が「かの仏願に順ずる」という一句に釘付けになり、彼の中でわだかまっていた疑問、「どうしてただ念仏するだけで往生できるのか」という疑問が一気に氷解したというのは有名なエピソードです。

タグ:親鸞を読む
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