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倚りかからず [『ふりむけば他力』(その75)]

(14)倚りかからず

 釈迦は「自灯明」と言うだけではなく、同時に「法灯明」と言っていることに注目しましょう。釈迦にとってこの二つは別ではないということです。自己をたよりとすることは取りも直さず法(浄土の教えでは本願です)をたよりとすることであり、法をたよりとすることはおのずから自己をたよりとすることになるということです。自己をたよりとするだけで法をたよりとしないのは、ひたすら自己をよしとする「我執」であることは言うまでもありませんが、しかし法をたよりとしながら自己をたよりとしないのは、法をたよる自己を喪失していることに他ならず、それは実は法をたよりとしていないと言わなければなりません。
 法に倚ることで、他の何ものにも倚りかからずに生きることができるのではないでしょうか。法に倚ることで、ほんとうの意味で他から独立した自由な生き方ができると思うのです。ぼくの好きな詩に茨木のり子の「倚りかからず」があります。

 もはや
 できあいの思想には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや
 いかなる権威にも寄りかかりたくはない
 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある

 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ

 法の背もたれに倚りかかることによって(これが法灯明)、それ以外のいかなる権威にも倚りかからずに生きることができるのではないでしょうか(これが自灯明)。

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