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胡蝶の夢 [『ふりむけば他力』(その90)]

(14)胡蝶の夢

 これがわれらの普通の夢と現実ですが、いまここで考えたいのはこの現実そのものがもうひとつの大きな夢のなかのことかもしれないということです。
 デカルトも絶対に確実な真理を求める過程で同じ想定をしていました、われらが夜に夢を見るように、いま現実に起っていることも夢のなかのことかもしれないと(第6章、2)。しかし夢の話として何と言っても印象的なのは荘子の「胡蝶の夢」でしょう。荘子はあるとき胡蝶として気持ちよく舞っていましたが、はっと目が覚めるとそれは夢のなかのことでした。そのとき荘子はこう思ったというのです、さてわたしが胡蝶の夢を見ていたのか、それともひょっとしたら胡蝶がわたしの夢を見ているのではないか、いったいどちらだろうと。それこそ夢のような話ですが、要は、われらが現実と信じて疑わないことも、ある夢のなかのことかもしれないということです。その可能性は排除できないと。
 もしこの現実がひとつの夢のなかの出来事だとしますと、われらは夢を見ながら、これは夢であることに気づいていることになります。カントがわれらの見ている世界は特殊な眼鏡を通して見えている世界(現象界)であると言うのも同じことで、われらは特別な夢のなかにあって、これは夢であると思っているということです。したがってこの夢が覚めたときに見えるほんとうの世界(物自体の世界)がどんなものかをわれらは知ることができないということになります。さてそこで考えなければならないのは、この壮大な夢のなかに生きていて、それが夢であることに気づいているのと、それに気づいていないのとの違いです。夢であると気づいても夢から覚めるわけではなく、依然として夢のなかにいるのですから、いずれにしても違いはないではないかという問いでした。
 しかし、もう明らかでしょう、大いに違います。夢であることに気づいていませんと、その夢のなかの一つひとつの出来事にひたすらもがき苦しまなければなりません。もちろんなかには楽しいと思えること嬉しいと思えることもあるでしょうが、でも釈迦が言うように、所詮すべて苦です(一切皆苦)。なぜならこの夢は我執の夢ですから。われらは「われ」に囚われ、「わがもの」に囚われて一喜一憂しているのですから、この夢は全編苦しみの色に染められています。

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