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物語られた事実しかない [『ふりむけば他力』(その111)]

(7)物語られた事実しかない

 現実と夢の境目がそれほどはっきりしたものでないことは、荘子の「胡蝶の夢」が教えてくれます。先ほどまで荘子が胡蝶となった夢を見ていたのか(荘子が現実で、荘子が夢の中で胡蝶となって舞っていたのか)、それともいま胡蝶が荘子の夢を見ているのか(胡蝶が現実で、胡蝶が夢の中で荘子として生きているのか)に決着をつけるすべがあるでしょうか。先に事実と物語について、こちらに事実があり、あちらに物語があるというように分けられるものではないことを見ましたが、同じことです。どこかに生の事実があるわけではなく、あるのは「物語られた事実」(あるいは「事実となった物語」)だけです。
 さて釈迦は「これは〈わがもの〉である」という観念はひとつの物語であり、この世を生きる苦しみはこの物語に囚われること(物語であるのにそれを事実と思い込むこと)に起因すると気づいたのですが、そのことを、まだ気づいていない人にどう語ればいいのでしょう。それに気づいていないということは、それは物語などではなく事実そのものと思い込んでいるということですが、その人に「それは物語にすぎません」と言ったとしても、「どうしてそんなことが言えるのか、これほど確かな事実はないではないか、みんなこの観念にもとづいて生きているではないか」と反発されるだけでしょう。ではどうするか。もう一つの物語を語るのです、「われらは『これは〈わがもの〉である』と思って生きていますが、その世界はもうひとつ大きな世界の中に包まれていると考えることはできないでしょうか。そこでは〈わがもの〉もなければ〈わがいのち〉もなく、みなひとつにつながっています」と。
 考えてみますと、「わがもの」の観念に囚われているということは、それには外部がないと思っているということです。「わがもの」の世界が唯一の世界であり、それ以外の世界などないと思い込んでいるということです。逆に、「わがもの」は物語であり、その物語を生きていることに気づいたということは、それには外部があることに気づいたということです。内部にいることの気づきと外部があることの気づきはひとつです。さてしかし、「わがもの」の物語の外部に気づくこととその外部に出ることはまったく別であり、外部に気づいてもその外部に出ることはできず、したがってその外部について「事実はかくかくしかじか」と語ることはできません。としますと、「わがもの」は物語であると語るためにはもう一つの物語を語るしかありません。

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