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一心 [『教行信証』「信巻」を読む(その9)]

(9)一心


「序」の第三段、最後のくだりです。


ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家(龍樹・天親を論家といい、曇鸞以下の高僧たちを釈家という)の宗義を披閲(ひえつ)す。広く三経(浄土三部経)の光沢を蒙(かぶ)りて、ことに一心の華文(かもん、天親の浄土論、真実の信心である一心を明らかにしたことからそういう)を開く。しばらく疑問をいたしてつひに明証(みょうしょう)を出(いだ)す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言(ろうげん、あざける言葉を恥ぢず。浄邦をねがふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗(きほう、そしること)を生ずることなかれとなり。


第二段で真実の信心が「自性唯心」や「定散の自心」により歪められていることが述べられましたが、だからこそ親鸞としては是非とも「信巻」を設けて真実の信心のありようを明らかにしなければならないということです。そこで浄土の諸経典はもちろん、高僧がたの要説を参照しようと思うということですが、そのなかで「ことに一心の華文を開く。しばらく疑問をいたしてつひに明証を出す」と言われているのが目を引きます。高僧たちの聖教はたくさんありますが、なかでも天親の『浄土論』を開いて、そこに出てくる「一心」を取り上げたいということです。天親は『浄土論』の冒頭で「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と表明していますが、親鸞はこの「一心」に着目するのです。


「一心」というのは、普通には「他のことに心を移すことなく」あるいは「一つのことに集中して」といった意味の何ということのないことばですが、親鸞はそこからさらに一歩踏み込んで、このことばに真実の信心の本質があらわれていると見るのです。普通に何かを信じるというとき、その何かとそれを信じるわれらの心は別々になっていますが、本願を信じるというのは本願と信心が「一つ」になっていること、これが「一心」の意味だというのです。弥陀の「願心」とわれらの「信心」は別々にあるものではなく「一つの心」であるということです。



タグ:親鸞を読む
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