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弥陀と凡夫 [『教行信証』「信巻」を読む(その43)]

(2)弥陀と凡夫


 これまでのところで信心とは何かについて、阿弥陀仏の本願(「いのち、みな生きらるべし」という「本の願い」)が、名号の「こえ」となってわれらの心に聞き受けられることであることが述べられてきました。そのようにして「ほとけの心」が「われらの心」にやってきて一つになることが信心であり、それが「一心」とよばれるのでした。さてしかしそもそも阿弥陀仏とわれら凡夫との間には天地の差があり、そのことがこの引用文で際立たせられていると見ることができます。阿弥陀仏は「五眼円かに照らし、六通自在」であるのに対して、われら凡夫は「五濁・五苦等は、六道に通じて受けていまだなきものはあらず」というありさまです。


阿弥陀仏とわれら凡夫とはこのように大きく隔たっていますが、しかし両者は別々にいるのではありません。こちらに凡夫がいて、あちらに阿弥陀仏がいるのではないということ、同じことですが、こちらに穢土があり、あちらに浄土があるのではないということを忘れるわけにはいきません。阿弥陀仏はこことは別の世界(アナザーワールド)に超然としておわすのではありません。「いまここ」に本願力としてはたらいているということ、阿弥陀仏とは「体」ではなく「力用(はたらき)」であるということ、ここに阿弥陀仏の本質があります。そして阿弥陀仏が本願力としてわが身の上に生き生きとはたらいていることが感じられたとき、その足下に浄土がひらけているということ、ここに浄土の本質があります。


「五濁・五苦等は、六道に通じて受けていまだなきものはあらず」と言われ、そしてこの六道とは別にどこかに特別な世界があるのではないとしますと、世界はこの穢土ひとつであり、生きとし生けるものはみな凡夫であるということになります。では阿弥陀仏とは何かと言いますと、生きとし生けるものたちみなをひとつにつないでいる力に他なりません。ちょうど無数の星々をつないでいるのが万有引力であるように、あらゆる凡夫たちをひとつにつなぎあわせているのが本願力です。万有引力があるから星々の運行が保たれているように、本願力があるからわれら凡夫はその力により生かされているのです。そのことに気づいたとき、この穢土は穢土のままで浄土となります。



タグ:親鸞を読む
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