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聞其名号信心歓喜 [『教行信証』「信巻」を読む(その71)]

(9)聞其名号信心歓喜


 またもや第十八願成就文に戻らなければなりません、ここにこの問いに対するすべての答えがあるからです。「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号信心歓喜乃至一念)」とあり、「信心歓喜」の前に「聞其名号」がおかれていますが、ここに金剛堅固な信心とは何かという問いに対する答えがあります。信心の前に名号があるということ、これです。もし信心に先立って名号がなければ、そんな信心はただの妄想です。自分で勝手にそう信じているだけですから、傍から「そんなことはありえない」と論難されたら、すぐさま吹き飛ばされてしまいます。しかし信心の前に名号があれば、その信心は金剛不壊です。信心が宙にふわふわ浮んでいるのではなく、名号の大地をしっかり踏みしめて立っているからです。


信心が名号の大地に立っているとはどういうことでしょう。如来回向の名号がしっかり届いているということです。「いのち、みな生きらるべし」という「本の願い」が「南無阿弥陀仏」の「こえ」となって「いま」わが身にはたらきかけていると感じているということです。親鸞が「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて云々」と言えるのは、「よきひと」法然の仰せを通して如来回向の名号がわが身に届き、もうその名号の大地に立っているという実感があるからです。如来回向の名号が届いていることが「聞其名号」であり、それが取りも直さず「信心歓喜」となっているのです。そのときもうどんな論難がやってきても動乱破壊されることはありません。


さて善導は「十悪五逆の凡夫が十念の念仏で往生できるはずがない」という論難にどう答えているかといいますと、「わが所愛はすなはちこれわが有縁の行なり、すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛はすなはちこれなんぢが有縁の行なり、またわれの所求にあらず」ということ、つまりそれぞれが有縁の行によるべきだというのですが、ここからおのずと頭に浮びますのが『歎異抄』第12章です。唯円は「念仏はかひなきひと(甲斐性がない人)のためなり、その宗あさし、いやし」と論難する人には「上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします」と答えるべきだと言っていますが、まったく同じ趣旨です。これは金剛堅固な信心を得た人は、もう人と争うことがないということを意味します。



タグ:親鸞を読む
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