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仏意釈 [『教行信証』「信巻」を読む(その97)]

第10回 至心は本願海から

(1) 仏意釈

本願では至心・信楽・欲生の三心が誓われているのに、天親はどうして一心というのだろうという問いが立てられ、それに対して字訓釈を施し、本願の三心はみな真実の信心としての一心に他ならないから、天親は一心と言われたのであると答えられました。しかしこれで三心一心問答が終わりではなく、今度は逆に、天親のように分かりやすく一心と言えばいいのに、どうして本願は三心というのだろうかと問われます。

また問ふ。字訓のごとき、論主のこころ、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発(おこ)したまへり。いかんが思念せんや。

答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ、いつわりへつらう)にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫(ひびん)して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を顕す。ゆゑに疑蓋まじはることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

三心の含意するところをその文字の意味から探究してみると、みな一心に収まることが了解できたが、とすると、どうして本願はわざわざ至心・信楽・欲生の三心を持ち出しているのだろうという問いで、仏がこの三心を持ち出さざるをえなかったその意図を僭越ながら探ってみようということです。これまではわれらの側から三心の意味を探究してきたが、今度は仏の側に立ってその意味を明らかにしようということで、これを古来、仏意釈と呼んでいます。


タグ:親鸞を読む
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