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信心があるから本願がある [『教行信証』「信巻」を読む(その120)]

(12)信心があるから本願がある

「信不具足」の二つ目は「ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん」ことです。これは何気なく読み過ごしてしまいそうなところですが、大事なことを言っていると思われます。「道」とは「覚りへの道」あるいは「覚りそのもの」で、「得道の人」とは「その道を歩む人」ですが、これを浄土の教えでいいますと、「道」が「本願」で、「得道の人」は「本願を信ずる人」です。そうしますと、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん」とは、本願があることは信じても、信心の人がいることを信じないということで、本願と信心とを別ものとすることです。

しかし本願と信心はひとつであり切り離すことはできません。本願があるから信心があるのは言うまでもありませんが、と同時に信心があるから本願があるのです。このことをあらためて考えておきましょう。

信心があるから本願があり、信心がなければ本願はどこにもないということは、本願とは「体」ではなく「力用(りきゆう)」であるということに他なりません。「体」とは「それ自体としてどこかにあるもの」のことですが、「力用」とは「はたらきの力」です。本願とはどこかにそのものとして存在するのではありません、われらを救わんと「いまここ」でわれらにはたらきかけている力です。その力(本願力と言います)はわれらに信心をもたらし、それがわれらを救うはたらきをします。このように本願は信心となってわれらを救うのですから、信心があるから本願があるのであり、信心がなければ本願はないと言わなければなりません。

信心があるから本願があるということから、もう一つ大事なことが出てきます。本願は信心として存在するのですから、それは信心の人を通してしか伝わらないということです。本願はわれらに直接やってくることはできません、すでに信心を得た人を通してやってきます。「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』第2章)とありますように、本願は「よきひと」から伝えられるのです。

(第11回 完)


タグ:親鸞を読む
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