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弥陀成仏のこのかたは(讃阿弥陀仏偈和讃) [親鸞の和讃に親しむ(その3)]

3.弥陀成仏のこのかたは(讃阿弥陀仏偈和讃)

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥(もうみょう)をてらすなり(第3首)

弥陀正覚のその日から、いま十劫のときがすぎ、御身のひかりはてもなく、われらの闇をてらしだす

これから曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』をもとにした和讃がはじまります。

本願が成就し、弥陀が成仏して十劫のときが経ったと詠われます。ですから、もう気が遠くなるほど昔から本願の光はわれらを照らしつづけてくれているということになります。ただこの光は、それに気づかなければどこにも存在しないという特性があります。日の光や月の光は、たとえそれに気づいていなくても、間違いなくわれらを照らしてくれていますが、本願の光は、それに気づいてはじめて存在するようになるのです。それが、われらが「見る」ことのできる普通の光と、「気づく」しかない本願の光との違いです。ですから本願が成就して十劫を経たとは言うものの、その本願の光に遇うことができたときにはじめてほんとうの意味で本願が成就したと言わなければなりません。したがって本願は一斉に成就するのではありません、それに気づいたその都度、そしてそれに気づいた人ごとに成就するのです。

「世の盲冥」とは、われら煩悩具足の凡夫のことです。われらは、ちょうど蚕が繭をつくってそのなかに閉じ籠るように、「わたしのいのち」という繭のなかに立て籠もり、その暗闇の中で煩悩の炎をちろちろ燃やしています。しかし「法身の光輪」はそんなわれらをつねに照らしつづけてくださる。「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこを障(さ)へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふ」(「正信偈」)のです。あるいは「たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」(同)とありますように、「法身の光輪」は「わたしのいのち」という繭のなかも「あきらかにして闇なき」ようにしてくださるのです。しかし、そんなふうに言えるのは、「法身の光輪」に気づいてからのことで、気づかないとどこにもありません。


タグ:親鸞を読む
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