SSブログ

信心よろこぶそのひとを [親鸞の和讃に親しむ(その32)]

(2)信心よろこぶそのひとを

信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり(第94首)

信心よろこぶそのひとは、すでに如来とひとしくて、大信心は仏性で、仏性つまり如来なり

「無量(アミタ)のいのち」に気づいた人(「信心よろこぶそのひと」)は「無量のいのち」に「ひとし」と詠われます。「無量のいのち」と「おなじ」になるのではありません。「無量のいのち」に気づいたとはいえ「有量(ミタ)のいのち」のままです。しかし「無量のいのち」に気づいたということは、その「無量のいのち」の中に包まれ、その中で生かされていることに気づいたということです。「無量のいのち」は「有量のいのち」の外にはありません。もしそうでしたら、それはもう「無量のいのち」ではないということです。「無量のいのち」はすべての「有量のいのち」をその中に包みこむというかたちでしか存在することができません。そのような「無量にいのち」に気づいたということは、その中で生かされていることに気づいたということであり、それはもう「有量のいのち」のままで「無量のいのち」であることに気づいたことに他なりません。これが「無量のいのち」に「ひとし」ということです。

すぐ前の和讃で、『涅槃経』は「一切衆生に悉く仏性あり」と説くと言いましたが、その真意は一切の「有量のいのち」は「無量のいのち」に包まれ、その中で生かされているということです。ただそれに気づいているかどうか。気づけばもう「如来とひとし」ですが、気づかなければ仏性などどこにもなく、如来もまた影も形もありません。前にも言いましたように、「すべてのものに引力あり」という真理は、それに気づこうが気づくまいが、そんなことには関係なく真理として存在しますが、「一切衆生に悉く仏性あり」という真理は、それに気づいた人にだけ存在し、気づいていない人には存在しないのです。そんなものを真理と言っていいのかという疑問が出るかもしれませんが、ここで強調しておきたいのは、それに気づいた人にとって、それは自分にだけ通用する真理ではありません、紛れもなく万人に当てはまる真理です。ただ、それに気づいていない人には、残念なことに、そんな真理はどこにも存在しないのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。