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十方諸有の衆生は [親鸞の和讃に親しむ(その10)]

10.十方諸有の衆生は

十方諸有(しょう)の衆生は 阿弥陀至徳の御名(みな)をきき 真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜(きょうき)せん(第25首)

生きとし生けるものたちは、南無阿弥陀仏のこえをきき、こころの底に沁みたなら、よろこびおのずとわきあがる

この和讃は上に触れました第18願成就文(「諸有(あらゆる)衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生まれんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」)の前半をもとに詠われています。この成就文に本願念仏の教えの要諦が凝縮されています。「阿弥陀至徳の御名をきく」こと、これが取りも直さず「真実信心いたる」ことであり(御名を「聞いて」その上で「信ずる」のではありません、御名を「聞く」ことがそのまま「信ずる」ことです、「聞即信」です)、そしてそのとき「おほきに所聞を慶喜する」ことが、すなわちわれらの救い(往生)に他ならず、それ以外のどこにも救いはありません。みなを聞いて、本願を信じ、そして浄土に往生させていただく、のではありません。みなを聞くこと(聞名)が、そのまま本願を信じること(信心)であり、それがまたそのまま浄土に生まれること(往生)です。

さてしかし「阿弥陀至徳の御名をきく」とはどういうことか。それは「南無阿弥陀仏」の「こえ」が聞こえるということですが、親鸞はそれを「本願招喚の勅命」(「行巻」)であると教えてくれます。「無量のいのち(無量寿、アミターユス)」がわれらに「一心正念にしてただちに来れ(いつでも帰っておいで)」と呼んで(招喚して)くださるということです。その「こえ」が聞こえたときわれらに「ああ、帰りたい」という思いが生まれ、これこそわれらのほんとうの願いであることに気づくのです。そしてその願いに気づくそのことが、そのままで願いが成就したということです。なぜなら、それは本願自身の願いであり、われらが願うより前に、本願により願われているのですから。これが本願が成就したということです。本願は十劫のむかしに成就したと経は説きますが、われらの上に成就するのは「真実信心いたる」そのときです。

(第1回 完)


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安楽国をねがふひと [親鸞の和讃に親しむ(その9)]

9.安楽国をねがふひと

安楽国をねがふひと 正定聚にこそ住すなれ 邪定・不定聚くにになし 諸仏讃嘆したまへり(第24首)

安楽国をねがうひと、正定聚にぞさだまりて、邪定・不定聚かげもなし。諸仏弥陀をば讃嘆す

ここで大事なことばが出てきます。正定聚です。これは『大経』の第十一願、必至滅度の願に出てきます。「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」とある中の「定聚」で、「正しく仏と成る身と定まったもの」の意味です。それにつづく「かならず滅度に至る」は「正定聚に住す」ことと同じことを指しています。そしてこの願が成就したことを示す文に「それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ」とあり、この和讃はこれをもとに詠っています。邪聚とは邪定聚のことで、仏と成ることのないもの、不定聚とは仏と成るともならないとも定まっていないもののことです。

さてではこの和讃はどういう意味か。まず「安楽国をねがふひと」ですが、このことばのもとには第十八願の成就文の一節、「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」があります。つまり「安楽国をねがふひと」は「すなはち往生を得、不退転に住せん」ひとであるということです。信心を得て安楽国に生まれたいと願う人は、もうそのときに(「すなはち」)往生を得て、不退転の位にいるのです(不退転とは仏と成ることから退転しないということで、正定聚と同じ意味です)。かくして「安楽国をねがふひと 正定聚にこそ住すなれ」となります。しかし考えてみますと、往生したいと願うだけで、すぐさま往生でき、正定聚に住することができるとは途方もないことと言わなければなりません。どうしてそんなことが言えるのか。それは他でもありません、それが弥陀の願い(本願)であるからです。

われらの往生・成仏は弥陀によって願われているのであり、その願いはもうすでに成就しているのです。そして「安楽国をねがふひと」とは、その弥陀の願いに気づいた人のことですから、そのときすでに「正定聚にこそ住すなれ」となります。


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観音・勢至もろともに [親鸞の和讃に親しむ(その8)]

8.観音・勢至もろともに

観音・勢至もろともに 慈光世界を照曜し 有縁を度してしばらくも 休息(くそく)あることなかりけり(第19首)

観音勢至あいそろい、慈悲のひかりで世をてらし、縁ある衆生救っては、しばらくの間もやすみなし

観音・勢至の慈光は世界を照曜すると詠われますが、弥陀と観音・勢至の関係はどのようなものでしょう。第3首に「法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり」とありましたが、弥陀の光明はわれらを直接に照らすのではなく、観音・勢至を媒介として「世の盲冥」を照らすと受けとるべきでしょう。つまり観音・勢至とは弥陀の光明をわれらにつなぐ役割をする菩薩たち(善知識、あるいは「よきひと」)を代表しているということです。これは弥陀の名号についても同じで、南無阿弥陀仏は弥陀から直にわれらに与えられるのではなく、人づてにリレーされてくるものです。『歎異抄』2章の「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、云々」はそれを言っているのに違いありません。

不思議な「ひかり(光明)」や「こえ(名号)」はどこか宇宙のかなたからやってきますが、それがわれらに届くのは目の前にいる「よきひと」を通してです。「よきひと」はまず有縁の人に「ひかり」と「こえ」を届け、それを受けとった人がまた「よきひと」となってその有縁の人に「ひかり」と「こえ」を届けるというようにして弥陀の本願はその悠久の歴史をつくっていくのです。弥陀の本願は悠久の歴史として存在するということから大事なことが出てきます。われらはその歴史のなかで「よきひと」を通して弥陀の本願を受けとりますが、それは決してそれだけで完結しないということです。「よきひと」から弥陀の本願を受けとったわれらは、みずから「よきひと」としてまた誰かに弥陀の本願を受け渡すことになるのです。

本願を受けとることと(これが往相です)、本願を受け渡すことは(これが還相です)、切り離しがたく結びついているのです。だからこそ弥陀の本願は悠久の歴史として連綿とつづいていくことになります。


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神光の離相をとかざれば [親鸞の和讃に親しむ(その7)]

7.神光の離相をとかざれば

神光の離相をとかざれば 無称光仏となづけたり 因光成仏のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり(第14首)

ほとけのひかり相(かたち)なく、こころおよばぬほとけとぞ。ひかりとなれるほとけをば、諸仏ひとしくほめあげる

この和讃はことばが難しい。まず「神光」ですが、この「神」は「不思議なはたらき」を意味しますから、われらの無明の闇を晴らしてくれるという不思議なはたらきをする光明ということです。次の「離相」は、相すなわち「すがたかたち」を離れているということで、「とかざれば」は、説くことができない、つまりことばを超えているということです。だから無称光仏、つまり思いはかることのできない光の仏と名づけられるというのです(称とはここでは「はかる」ことを意味します)。さらに「因光成仏」には左訓があり、「光きはなからんと誓ひたまひて、無礙光仏となりておはしますとしるべし」とありますから、第十二願すなわち光明無量の願が成就して無礙光仏となられたと理解すべきでしょう。

この和讃は弥陀の光明は「こころもおよばれず、ことばもたえたり」(『唯信鈔文意』)と詠っているのです。

そもそも弥陀の光明は、われらがそれに遇って(気づいて)はじめて存在するようになるもので、それまでは影も形もありません。つまりそのご縁があってはじめて姿をあらわすのであり、ご縁というものは事後的にしか分からないものです。これがまず「こころもおよばれず、ことばもたえたり」と言わねばならないことであり、そして弥陀の光明に遇うということは、われらの我執が照らし出されることに他なりませんが、これまた「こころもおよばれず、ことばもたえたり」です。我執すなわち「わたし」に囚われていることは、それをわれらが自分の力で気づこうとしても金輪際気づくことができません。なぜならそれは気づいてはじめて存在するようになるのであり、それまでは影も形もないからです。これまたそのご縁があってはじめて姿をあらわすのです。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」(『教行信証』序)であり、そのご縁は「こころもおよばれず、ことばもたえたり」です。


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無明の闇を破するゆゑ [親鸞の和讃に親しむ(その6)]

6.無明の闇を破するゆゑ

無明の闇を破するゆゑ 智慧光仏となづけたり 一切諸仏・三乗衆(声聞、縁覚、菩薩) ともに嘆誉したまへり(第11首)

無明の闇を破るゆえ、知恵のひかりのほとけとぞ。諸仏も弟子もみなともに、ほめて喜びあらわさん

「無明の闇を破する」という言い回しは、しばしばお目にかかります。真っ先に頭に浮ぶのは『教行信証』冒頭の「無礙の光明は無明の闇を破する恵日なり」ですが、この言い回しのおおもとは曇鸞『論註』の「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す。よく衆生の一切の志願を満てたまふ」にあります(この段は古来「破闇満願」とよばれ大切にされてきました)。

まず、われらは無明の闇の中にあるということを、あらためて考えてみましょう。無明とは縁起の法という根本真理に暗いことであり、あらゆる煩悩の元となるものです。要するに頑なな囚われのなかにあるということですが、それは「わたし」への囚われ、すなわち我執に他なりません。何の根拠もなく「わたし」があらゆる事がらの第一起点として存在すると信じて疑わないこと、これが無明です。無明がなぜあらゆる煩悩(そして苦しみ)の元かと言いますと、われらはいつでもどこでもこの第一起点としての「わたし」を立てようとしてもがき、それが阻害されたりしますと嘆き悲しみ、また激しく怒るからです。

われらは「わたし」という自由と独立の砦を守ろうとして、そのことに深く束縛されています。自由と独立を守ろうとして、逆にそのことにがんじがらめに束縛されてしまうという、この何とも言えない倒錯こそあらゆる苦しみの根源です。

さてでは無礙の光明は無明の闇を「破す」とはどういうことでしょう。この光明に照らされるともう無明の闇がすっきり消え、「わたし」への囚われから解放されるということでしょうか。いえ、そうではありません。むしろ無明の闇が無明の闇であることに気づかされるのです、「わたし」に囚われていることが明るみに引き出されるのです。「ああ、これまでこの囚われによって苦しんできたのか」という気づきが与えられるのです。そう気づいたからといって、囚われから解放されるわけではなく、依然として「わたし」に囚われたままですが、でもその気づきはわれらの肩の荷を一気に軽くしてくれます。変な言い回しですが、安心して囚われることができるようになるのです。


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道光明朗超絶せり [親鸞の和讃に親しむ(その5)]

5.道光明朗超絶せり

道光明朗(みょうろう)超絶せり 清浄光仏とまうすなり ひとたび光照かぶるもの 業垢(ごっく、煩悩の垢)をのぞき解脱をう(第9首)

さとりのひかりほがらかに、清らなひかりのほとけとぞ。ひとたびひかりにてらされて、垢をのぞいてさとりをう

無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光の十二光仏が相次いで讃歎されていきますが、この和讃は清浄光仏を称えます。「道光」とは、道すなわちさとりの光で、これは太陽や月の光のように眼に見えるものではありませんが、しかしその不思議な光に照らされていると気づくのです。そして「ひとたび光照かぶる」と気づくだけで、「業垢」が除かれ「解脱」を得ると言われます。道光(さとりの光)をかぶることで解脱(さとり)を得るということ。さとりとは「わたし」に目覚めること(正確には、「わたし」に囚われていることに気づくこと)ですが、その目覚めはどうもがいても「わたし」からは起らず、さとりの光をかぶることではじめて起るということです。「わたし」への囚われに目覚めた人(よきひと)から放たれる不思議な光が「わたし」への囚われの目覚めをもたらしてくれるということです。

さてここで考えておきたいのは、「ひとたび光照かぶるもの」は「業垢」がのぞかれると詠われていることです。「業垢」とは煩悩のことですから、これをそのまま読みますと、「さとりの清らかな光」をかぶれば煩悩が消えてなくなるように思われます。しかし、この光は「わたし」への囚われ(我執すなわち煩悩)に気づかせてくれるのであって、その囚われをなくしてくれるわけではありません。としますと「業垢をのぞき」とはどういうことでしょう。一般に何かに囚われていると気づくことは、もうその囚われから抜け出ることです(マインドコントロールされていると気づいた人は、もうその囚われから脱出しています)。「わたし」への囚われもまた、それに気づくことはそれから抜け出ることですが(その意味では「業垢をのぞ」かれているのですが)、ただ、全面的に抜け出ることはかなわず、依然として「わたし」への囚われのなかにあります。

一方では囚われのなかにありながら、他方ではその囚われに気づいているということで、片足は囚われのなかにありながら、もう片足は囚われから抜けていると言えばいいでしょうか。


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解脱の光輪きはもなし [親鸞の和讃に親しむ(その4)]

4.解脱の光輪きはもなし

解脱の光輪きはもなし 光触(こうそく)かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ(第5首)

さとりのひかりはてもなし。ひかりにふれるものはみな、有無のとらわれなくなって、へだてなき仏に帰命せん

弥陀の智慧の光を浴びると「有無をはなる」というのですが、どういう事態を言っているのでしょう。ここで「有無」といいますのは、有見と無見のことで、それを離れるということは、両者をともに乗りこえるということです。では有見、無見とは何か。「わたし」は有るとするのが有見、「わたし」は無いとするのが無見と考えていいでしょう。『讃阿弥陀仏偈』をつくったのは曇鸞で、彼はもともと龍樹の学徒ですから、ここで詠われているのは龍樹の思想です。「正信偈」の龍樹讃にも「南天竺に龍樹大士世に出でて、ことごとくよく有無の見を摧破(さいは)せん」と詠われています。

第3首のところで述べましたように、われらはみな「わたし」があると思っています。思う主体としての「わたし」は疑いようもなく存在します。もし誰かが「わたし」など存在しないと言ったとしても、そう言っている「わたし」がそこに存在します。さてしかしその「わたし」とは何かと問われますと、途端に答えに窮します。「わたし」をこちらから捉えることはできないからです。こちらから捉えることのできないようなものを存在するとは言えないとしますと、「わたし」は存在しないと言わざるをえません。しかしまた、デカルトの言うように、「わたし」が存在することほど確かなことはありません。かくして「わたし」は有るとは言えないものの、しかし無いとも言えないのです。「わたし」は有るでもなく、無いでもありません。

そしてそれは「ほとけのいのち」についても同様に言えます。「ほとけのいのち」が有ることは、それにひとたび遇うことができれば、もう疑いようがありませんが、しかし、では「ほとけのいのち」とは何かと問われたら、てきめんに答えに窮します。「ほとけのいのち」はこちらからゲットすることができませんが、「ほとけのいのち」にむこうからゲットされるのです。それが「ほとけのいのち」に生かされていることであり、弥陀の「光触かぶる」ということです。


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弥陀成仏のこのかたは(讃阿弥陀仏偈和讃) [親鸞の和讃に親しむ(その3)]

3.弥陀成仏のこのかたは(讃阿弥陀仏偈和讃)

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥(もうみょう)をてらすなり(第3首)

弥陀正覚のその日から、いま十劫のときがすぎ、御身のひかりはてもなく、われらの闇をてらしだす

これから曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』をもとにした和讃がはじまります。

本願が成就し、弥陀が成仏して十劫のときが経ったと詠われます。ですから、もう気が遠くなるほど昔から本願の光はわれらを照らしつづけてくれているということになります。ただこの光は、それに気づかなければどこにも存在しないという特性があります。日の光や月の光は、たとえそれに気づいていなくても、間違いなくわれらを照らしてくれていますが、本願の光は、それに気づいてはじめて存在するようになるのです。それが、われらが「見る」ことのできる普通の光と、「気づく」しかない本願の光との違いです。ですから本願が成就して十劫を経たとは言うものの、その本願の光に遇うことができたときにはじめてほんとうの意味で本願が成就したと言わなければなりません。したがって本願は一斉に成就するのではありません、それに気づいたその都度、そしてそれに気づいた人ごとに成就するのです。

「世の盲冥」とは、われら煩悩具足の凡夫のことです。われらは、ちょうど蚕が繭をつくってそのなかに閉じ籠るように、「わたしのいのち」という繭のなかに立て籠もり、その暗闇の中で煩悩の炎をちろちろ燃やしています。しかし「法身の光輪」はそんなわれらをつねに照らしつづけてくださる。「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこを障(さ)へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふ」(「正信偈」)のです。あるいは「たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」(同)とありますように、「法身の光輪」は「わたしのいのち」という繭のなかも「あきらかにして闇なき」ようにしてくださるのです。しかし、そんなふうに言えるのは、「法身の光輪」に気づいてからのことで、気づかないとどこにもありません。


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誓願不思議をうたがひて [親鸞の和讃に親しむ(その2)]

2.誓願不思議をうたがひて(冠頭讃2)

誓願不思議をうたがひて 御名(みな)を称する往生は 宮殿(くでん)のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ(第2首)

弥陀の本願うたがって 南無阿弥陀仏をとなえれば 宮殿のなかで5百年 むなしいときがすぎてゆく

誓願不思議とは誓願(本願)は思議できないということ、それが何であるかをこちらから思いはかることができないということです。すぐ頭に浮ぶのが『歎異抄』冒頭の「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」という文です。ここでは誓願不思議を信じるというのですが、こちらから思いはかることができないようなものをどうして信じられようかと思う、これがこの和讃の「誓願不思議をうたがひて」ということです。近代合理主義の立場からしますと、これはきわめて自然で正常なこころの動きと言わなければなりません。

翻って考えてみますと、「わたし」の存在もまたこちらから思いはかることができないのではないでしょうか。にもかかわらず、われらはそれが存在するとごく当たり前に信じています。「わたし」を思いはかることができないのは、ものを見る眼を見ることができないのと同然です。眼を見ることなど造作もない、鏡で見ればいいではないかと言われるかもしれませんが、それは「見られた眼」であり、それを「見ている眼」ではありません。それと同じように、ものを思いはかっている「わたし」を思いはかることはできません。それにもかかわらず、ものを思いはかっている「わたし」がいることを疑う人はいません。どころか、これほど確かなことはないというのが、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」です。

こちらから思いはかることができないようなものは信じられないと言いながら、「わたし」というどうにも思いはかることのできないものを信じています。弥陀の誓願不思議も同じです。こちらから思いはかろうにも思いはかれない弥陀の誓願を信じることがあるのです。それは、こちらから思いはかれないが、むこうから思いはかられていると気づくということです。こちらからゲットしようとしてもかないませんが、あるときむこうからゲットされている。これが誓願を信じるということで、「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(『高僧和讃』)です。


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弥陀の名号となへつつ(冠頭讃) [親鸞の和讃に親しむ(その1)]

第1回 浄土和讃(1)

1.弥陀の名号となへつつ(冠頭讃)

弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり(第1首)

南無阿弥陀仏をくちにして まことの信心あるひとは いつも心に本願を ほとけに感謝わすれない

『浄土和讃』冒頭の和讃です。第一句と第二句で「弥陀の名号となへる」ことと「信心まことにうる」ことはひとつであると詠われます。まっとうに名号を称えている人は、まっとうに信心をえている人であり、逆に真実の信心をえている人は、おのずから名号を称えるということです。ところが、本願を信じることはできても、名号を称えるのはどうもという人がいます。何を隠そう、ぼく自身がそうでした。南無阿弥陀仏を口にするのがどうにも抵抗があるのです。しかし名号は「本願招喚の勅命」であるという親鸞のことばがストンと肚に落ちてからはこの抵抗感が消えました。「本願招喚の勅命」をぼく流に平たく言い替えますと「いつでも帰っておいで」となります。このように南無阿弥陀仏とは本願から「いつでも帰っておいで」と呼びかけられていることだとしますと、それに「はい、ただいま」と応答するのはごく自然です。それが念仏だと思えるようになって、ぼくの口から滑らかに南無阿弥陀仏が出るようになりました。

「憶念の心つねにして」とは、本願に遇えた人(本願の「よびごえ」が聞こえた人)の心はいつも本願に温められているということです。むかし「いつも心に太陽を」という映画がありましたが、それをお借りすれば「いつも心に本願を」となります。「仏恩報ずるおもひあり」とは、本願に遇えて「ありがたい(かたじけない)」という思い(それが『歎異抄』冒頭の「念仏申さんとおもひたつこころ」です)が生まれると、それは何らかの「しるし」として外にあらわれざるをえないということです。妙好人・因幡の源左は、母親から芋を掘ってきておくれと頼まれ、鍬をかついで畠まできたのですが、そこにはすでに先客(芋泥棒です)がありました。それを見た源左はそのまま踝を返し、母親に「今日はおらんちの番ではなかったかのう」と言ったそうです(『妙好人 因幡の源左』)。これが「仏恩報ずるおもひ」でしょう。


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