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無礙光仏のひかりには [親鸞の和讃に親しむ(その38)]

(8)無礙光仏のひかりには

無礙光仏のひかりには 無数(むしゅ)の阿弥陀ましまして 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり(第109首)

無碍光仏の光には、無数の化仏ましまして、その化仏みなそれぞれに、信心のひとまもるなり

この和讃はそうではありませんが、現世利益和讃全15首のうち11首が「南無阿弥陀仏をとなふれば」とはじまり、そして、文言の多少の違いはあっても、念仏の人を「まもるなり」と詠われています。梵天・帝釈天から四天王、地祇、竜神、炎魔法王、大魔王、善悪の鬼神、さらには観音・勢至、この和讃では無数の阿弥陀の化仏たちが「南無阿弥陀仏をとなふ」る人をまもってくれているというのですが、さてしかしこの「まもる」とはどういうことでしょう、何をまもってくれるのでしょう。念仏の人を大病からまもってくれるのでも、日照りや大雨、あるいは地震といった災害からまもってくれるのでもありません。この和讃にありますように、「真実信心をまも」ってくれるのです。信心がまもられることが、他のあらゆることがまもられることであるということ、ここに思いを潜めてみたい。

頭に浮ぶことがあります。旧約聖書の『ヨブ記』です。義の人ヨブは神の試練を受け、彼の所有する財産、そして子どもたち、さらには彼の健康まで、あらゆるものが次々に奪われていきます。そのような災難のなかで、ヨブは神への信仰を捨て、神を呪うようになるのではないかと試されるのです。その間の経緯が興味深く、多くの人たちを引きつけてきたのですが、いまはその結果だけを言いますと、ヨブは最後まで神への信仰を捨てることなく、それを見た神は彼を祝福して前にもまして多くの幸せを与えることになります。さてこの話において、神への信仰は「まもられる」ものではなく、みずから「まもらなければならない」ものです。どんな試練を受けようが断固として信仰をまもりぬいたことでヨブは讃えられるのです。

ところが「南無阿弥陀仏をとなふ」る人は、その信心をまもってもらえると言われます。そして信心がまもられさえすれば、たとえどんな災難に遭おうとも、心穏やかに生き、また死んでいくことができると説かれます。「待っているよ、いつでも帰っておいで」の声がいつも心に響いているのですから。これが本願念仏の教えです。


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天神・地祇はことごとく [親鸞の和讃に親しむ(その37)]

(7)天神・地祇はことごとく

天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり(第106首)

天地に満てる神々は、どの神々もことごとく、影の形に添えるごと、念仏のひとまもるなり

「ただ南無阿弥陀仏と称えるだけで往生できる」という念仏の教えを「ああ、何とありがたい」と慶ぶ人々の間に、阿弥陀仏以外の仏・菩薩、そして各地の神社に祀られる天神・地祇を軽侮する風潮が出てきます。それは「悪人こそ往生できる」という教えを誤解して、「どんな悪をなそうがかまわない」という造悪無碍に走る人たちが出てきたのと軌を一にしています。親鸞はそうした風潮に対して、関東の弟子に宛てた手紙のなかで、こう言っています、「まづよろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつると申すこと、この事ゆめゆめなきことなり。…仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり」(『親鸞聖人御消息』第27通)と。この和讃はそれとまったく同じ趣旨です。

さてしかしここでまたある戸惑いが起こらないでしょうか。先に「かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」という和讃を上げましたが、それとこの和讃の「これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり」とがどうつながるのか、という疑問です。一見したところ、「天神・地祇をあがめつつ、卜占祭祀つとめとす」る人たちを「かなしきかなや」と嘆くことと、「天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふ」と慶ぶことは矛盾するように感じられますが、親鸞にとって両者は矛盾するどころか、それはひとつのことです。それを見るためには、「むこうから」と「こちらから」をはっきり区別することが必要です。天神・地祇世はみな「むこうから」念仏のひとを「かげのかたちに添えるごとく」まもってくれていますから、「こちらから」卜占祭祀をつとめて、あれこれはからうことはないということです。「こちらから」あれこれはからうということは、「むこうから」まもってもらっていると信じていないということです。


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救いは「いまここ」に [親鸞の和讃に親しむ(その36)]

(6)救いは「いまここ」に

あることに気づいたということは、それが「もうすでに」そこにあるということであり、「これから」のことに気づくことはありません。ちょっと待った、明日のことについて何かに気づくということもあるのではないか、という反論があるかもしれません。しかし、それは何か予兆のようなものに気づくということで、それは予兆が「もうすでに」そこにあることに気づいているのであり、明日そのものについて何かを気づいているのではありません。かくして自力の救いは「これから」であるのに対して、他力の救いは「もうすでに」であることが明らかになりましたが、これで終わったわけではありません。そもそもなぜ救いは「もうすでに」であって、「これから」ではないのかという問いは手付かずのまま残っています。それはなぜ救いは自力で得られるものではなく、他力により与えられるしかないのかという問いの形を変えただけのことです。

この問いは救い(安心、仏教ではあんじんと読みます)とは何かということに関わります。救いには大きく二種類あります。ひとつはその時々の状況によって左右される救いで、もうひとつは状況には左右されず、生きることそのものに関わる救いです。前者は、たとえば大病を得るとか、仕事を失くすといった苦境からの救いで、そうした苦しい状況が改善されることにより救われます。そしてこの種の救いはわれらが自分一人の力によっては難しくても、みんなが力を合わせることにより手に入れることができます。政治や経済や、法や国家はそのためにあると言えるでしょう。さて問題は後者の救いです。これはその人がどのような状況にあろうと、生きている限り必要とされる救いで、たとえばこの和讃で「流転輪廻のつみきえて」と言われること、あるいは「定業中夭のぞこりぬ」と言われることです。それは生死の迷いから抜けること、生にしがみつき、死を怖れることから自由になることです。

そしてそれは本願他力により、「わたしのいのち」はそのままで、すでに「無量(アミタ)のいのち」であることに気づかせてもらうことです。この気づきさえ与えられれば、もうすでに「無量のいのち」のなかで生かされているのであり、独り生死を流転することはありませんし、定業も中夭も関係ありません。


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南無阿弥陀仏をとなふれば [親鸞の和讃に親しむ(その35)]

(5)南無阿弥陀仏をとなふれば

南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし 流転輪廻のつみきえて 定業中夭(じょうごうちゅうよう、定業は定まった寿命、中夭は早死)のぞこりぬ(第99首)

南無阿弥陀仏を称えれば、この世の利益はてもなし。流転輪廻に囚われず、生き死ぬことに迷いなく

浄土の教えはあの世についての教えではありません、この世についての教えです。あの世の利益を説くのではありません、この世に利益を説くのです。救いは「いまここ」にしかありませんから、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき、往生また定まるなり」(『末燈鈔』第1通)です。また「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『歎異抄』第1章)です。そしてこの和讃にありますように、南無阿弥陀仏に遇うことができれば、それだけで「この世の利益きはもなし」です。

さて、救いは「いまここ」にしかないと言いましたが、それはどういうことでしょう。どうして救いは「これから」やってくることはないのでしょう。救いは「いまここ」に、ということは、「もうすでに」救われているということに他なりませんから、この問いは救いはどうして「もうすでに」であって「これから」ではないのかということになります。ことはやはり自力か他力かということに関係します。救いは自力で手に入れるものか、それとも他力により与えられるものか、ということです。もし救いは自力で得るものでしたら、それは「これから」のこととなります。しかし他力により与えられるものでしたら、それは「もうすでに」のことです。

いろいろな問いが浮びあがります。まずどうして救いは自力で得るものならば「これから」なのか、「もうすでに」得ていることもあるではないか、という問い。それにはこう答えましょう、たとえ「もうすでに」得ているとしても、「これから」もそれを失くさないよう気を張りつづけなければなりません、と。そして次にどうして救いは他力で与えられるものならば「もうすでに」なのか、「これから」与えられることがあってもいいではないか、という問い。これにはこう言いましょう、他力の救いはそれに気づいてはじめて存在するからであり、そしてその気づきは「ああ、もう救いは与えられている」というかたちをとるからですと。(つづく)


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山家の伝教大師は [親鸞の和讃に親しむ(その34)]

(4)山家の伝教大師は

山家(さんげ、比叡の山)の伝教大師は 国土人民をはれみて 七難消滅の誦文(じゅもん)には 南無阿弥陀仏をとなふべし(第97首)

天台宗の最澄は、嵯峨天皇にこたえては、世の七難をなくすには、南無阿弥陀仏にしくはなし

この和讃の背景については存覚が『持名鈔』でこう説明しています、「嵯峨の天皇の御時、天下に日てり、雨くだり、病おこり、戦いできて国土おだやかならざりしに、いづれの行のちからにてかこの難はとどまるべきと、伝教大師に勅問ありしかば、『七難消滅の法には南無阿弥陀仏にしかず』とぞ申されける」と。七難については『法華経』の「観音菩薩普門品」(いわゆる『観音経』)に、火難、水難、風難、刀杖難、悪鬼難、枷鎖難(かさなん、かせや鎖につながれる)、怨賊難の七つが出され、「南無観世音菩薩」と称えれば、これらの難から免れることができると説かれています。これらをもとにこの和讃を読みますと、「南無阿弥陀仏」はまさに七難消滅という現世利益のための誦文(呪文)のように思えて、またもや大いに戸惑わされます。

「七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなふべし」という文言は、そのまま読みますと、七難消滅というご利益を得ようと思えば、南無阿弥陀仏を称えればいい、ということですが、そしておそらく伝教大師はその意味で言われたのでしょうが、親鸞はその深層にあるものを読み込んでいるに違いありません。そもそも親鸞にとって南無阿弥陀仏はこちらから称えるものではありません、むこうから聞こえてくるものです、「お前を待っているよ、そのまま帰っておいで」と。そしてそれにこだまするように「ありがとうございます、帰らせていただきます」と応答するものです。まず呼びかけがあり、それに応える、この呼応が念仏です。親鸞はそれを「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せず」と言います(「信巻」)。

そこからしますと、「七難消滅の誦文」はわれらが願って称えるものではなく、それを阿弥陀如来が願って称えてくださっているのです。そして「何もおそれることはない、そのまま帰ってくればいい」と呼びかけてくださっているのです。われらはそれに「はい、ただいま帰らせていただきます」と応えるだけです。


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阿弥陀如来来化して [親鸞の和讃に親しむ(その33)]

(3)阿弥陀如来来化して(これより現世利益讃)

阿弥陀如来来化(らいけ、釈迦として現れて)して 息災延命のためにとて 『金光明』(『金光明経』)の「寿量品」 ときおきたまへるみのりなり(第96首)

阿弥陀如来があらわれて、現生利益の経として、「金光明」の寿量品、説いてはのちに伝えたり

この和讃から「現世利益和讃」がはじまります。その最初に古来『法華経』、『仁王経』とともに鎮護国家の経典とされた『金光明経』が取り上げられ、その「寿量品」に息災延命が説かれていることが詠われます。息災延命には「七難をとどめ、いのちを延べたまふなり」という左訓がついていますが、これなどは現世利益の代表格と言えるでしょう。さてこのうたを読まれた多くの方は、浄土真宗は現世利益をはっきり否定することで他の宗派とたもとを分かっているのではないかという疑問をもたれるのではないでしょうか。そして、どうして親鸞はここで息災延命などという現世利益を取り上げるのだろうという思いが膨れ上がるのではないでしょうか。

後で読むことになりますが、『正像末和讃』の「悲歎述懐讃」のなかで親鸞はこう詠っています、「かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占(ぼくせん)祭祀つとめとす」と。どうして世の道俗が「良時・吉日えら」び、「天神・地祇をあがめ」て、「卜占祭祀つとめとす」るのかと言えば、言うまでもなく「七難をとどめ、いのちを延べ」ようとするからであり、現世利益を手に入れようとしているからでしょう。そういう世の動き(それは今も変わりません)に対して親鸞が「かなしきかなや」と嘆いていることと、ここで息災延命を説く『金光明経』を取り上げて詠うこととがどうにもうまくつながらないのです。

いったい親鸞は現世利益についてどう考えているのでしょう。まず、各自胸に手を当てて確認をしておきたいと思いますのが、われらはみな現世利益を求めているという事実です。いま猛威を奮っているコロナ禍が早く鎮まり、自分がコロナウイルスに感染しないで済むようみな切に願っているということです。そのことについて自分に嘘をつかないこと、これが親鸞にとっての出発点です。親鸞ほど己の心のありように正直な人はいないでしょう。自分の中には紛れもなく現世利益の願いがある、しかしだからと言って、息災延命のために「天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」ることはきっぱり否定する。そのことを念頭にこの和讃をもう一度味わいますと、はじめて読んだときとは違う風景が見えてきます。

息災延命は、われらがそれを願うより前に、「阿弥陀如来来化して」、「『金光明』の「寿量品」に「ときおきたま」い、願ってくださっているのですから、われらは「何と有り難いこと」と感謝するのみです。これが親鸞の現世利益です。


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信心よろこぶそのひとを [親鸞の和讃に親しむ(その32)]

(2)信心よろこぶそのひとを

信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり(第94首)

信心よろこぶそのひとは、すでに如来とひとしくて、大信心は仏性で、仏性つまり如来なり

「無量(アミタ)のいのち」に気づいた人(「信心よろこぶそのひと」)は「無量のいのち」に「ひとし」と詠われます。「無量のいのち」と「おなじ」になるのではありません。「無量のいのち」に気づいたとはいえ「有量(ミタ)のいのち」のままです。しかし「無量のいのち」に気づいたということは、その「無量のいのち」の中に包まれ、その中で生かされていることに気づいたということです。「無量のいのち」は「有量のいのち」の外にはありません。もしそうでしたら、それはもう「無量のいのち」ではないということです。「無量のいのち」はすべての「有量のいのち」をその中に包みこむというかたちでしか存在することができません。そのような「無量にいのち」に気づいたということは、その中で生かされていることに気づいたということであり、それはもう「有量のいのち」のままで「無量のいのち」であることに気づいたことに他なりません。これが「無量のいのち」に「ひとし」ということです。

すぐ前の和讃で、『涅槃経』は「一切衆生に悉く仏性あり」と説くと言いましたが、その真意は一切の「有量のいのち」は「無量のいのち」に包まれ、その中で生かされているということです。ただそれに気づいているかどうか。気づけばもう「如来とひとし」ですが、気づかなければ仏性などどこにもなく、如来もまた影も形もありません。前にも言いましたように、「すべてのものに引力あり」という真理は、それに気づこうが気づくまいが、そんなことには関係なく真理として存在しますが、「一切衆生に悉く仏性あり」という真理は、それに気づいた人にだけ存在し、気づいていない人には存在しないのです。そんなものを真理と言っていいのかという疑問が出るかもしれませんが、ここで強調しておきたいのは、それに気づいた人にとって、それは自分にだけ通用する真理ではありません、紛れもなく万人に当てはまる真理です。ただ、それに気づいていない人には、残念なことに、そんな真理はどこにも存在しないのです。


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平等心をうるときを [親鸞の和讃に親しむ(その31)]

第4回 浄土和讃(4)

(1)平等心をうるときを(諸経讃のつづき)

平等心をうるときを 一子地(いっしじ)となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし(第92首)

生きとし生けるものたちを、一人子のよう慈しむ、慈悲のこころは仏だけ、浄土にいたり身にそなう

一子地とは『涅槃経』に出ることばで、一切の衆生をみなわが一人子(釈迦にとっての羅睺羅、らごら、ラーフラ)として平等に見ることのできる境地をさします。すべての人を敵味方に関係なく平等に見る((おん)(しん)平等(びょうどう)になる)ことほど難しいことはありません。われらは「わたしのいのち」を生きている以上、「わたしのいのち」に利益をもたらす人には親しき人として近づき、「わたしのいのち」に害悪をもたらす人は怨めしい人として遠ざけるようになります。利益をもたらすか害悪をもたらすかに関係なく、みなわが一人子のように見る平等心をもつことなど到底できそうにありません。としますと、一子地とは仏の境地であって、われらには縁のないものということになるのでしょうか。もしそうでしたら、この和讃もわれらには縁遠いものとなってしまいますが、ここで「一子地は仏性なり」と言われていることに注目しなければなりません。と言いますのは、『涅槃経』の奥義は「一切の衆生は悉く仏性を有する」という点にあるからです。すべての衆生に仏性があり、そして一子地は仏性であるとしますと、われら決して一子地と無縁ではないことになります。

さてしかしそれはどういうことか。上に述べましたように、われらは「わたしのいのち」を生きている以上、怨親平等になることはできませんが、でも本願に遇うことができますと、「わたしのいのち」を生きながら、そのままで「ほとけのいのち」を生きていることに気づかされます。そして「ほとけのいのち」は言うまでもなく怨親平等のいのちですから、われらは怨親平等のいのちの中で生かせていただいていることになります。「ほとけのいのち」の気づきがなく、ひたすら「わたしのいのち」を生きているだけでしたら、一子地なんてまったく縁がありませんが、「ほとけのいのち」に生かせていただいていることに気づきますと、「一切の有情は、みなもつて世々生々の父母兄弟なり」(『歎異抄』第5章)という世界のなかで生きることになるのです。われらは「ほとけのいのち」に気づいたからと言って、これまで同様に「わたしのいのち」を生きていますから、怨親平等になることは金輪際できません。でも怨親平等の「ほとけのいのち」に生かされていると気づくことで、自分がいかにそこから遠くにいるかを思い知り、そんな自分が「ほとけのいのち」に生かされていることを何ともありがたいと思えるのです。


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宗教の怖さ、あるいは統一教会について(さらにつづき) [親鸞の和讃に親しむ(番外編 その3) ]

◎宗教の怖さ、あるいは統一教会について(さらにつづき)

「どうして自分が」の対極にあるのが、この「たまたま」の感覚です。ぼくが日本人であるのは「たまたま」であるように、ぼくが不幸に遭うのも「たまたま」であると感じられるかどうか。この「たまたま」は、そこに何の因縁(つながり)もなく、突然そうなったということではなく、むしろ逆に、そこに無数の因縁(つながり)があるから、「どうしてそうなったか」を見通すことはできないということです。あらゆることがらが無数の糸で互いにつながりあっているから、そこから特定の糸を取り出すことはできないということです。

ですから不幸は「たまたま」ぼくに起こりましたが、他の誰かに起こっても不思議はなく、また逆に他の誰かが不幸に遭ったとき、その不幸に彼ではなくぼくが遭ったとしても何の不思議もありません。このように思えるのは、「わたしのいのち」を他の無数のいのちたちから切り離すことなく、ひとつにつながりあって「ほとけのいのち(無量のいのち)」をつくっていると思うからです。みんなつながりあって「ほとけのいのち」であるとしますと、不幸が起こったのが「たまたま」ぼくであるということであり、「どうして自分に」という問いに苦しまなくて済むようになります。

さて、何ごとも「たまたま」であるとしますと、われらが何をするのもむなしいということになるのでしょうか。もう天を仰いでため息をつくしかないのでしょうか。いえ、決して。「人事を尽くして天命を待つ」という中国の儒学者のことばがありますが、清沢満之(明治期の宗教哲学者です)という人は「天命に安んじて人事を尽くす」と言います。不幸は「たまたま」自分に起こっただけと思うことは、だから仕方がないとあきらめることではなく、むしろ逆に、起こった不幸に立ち向かっていくことができるということです。「たまたま」自分に起こっただけと思えるからこそ、人事を尽くすことができるのです。反対に「どうして自分に」という問いに苦しんでいる人は、不幸にうちのめされて人事を尽くすことができなくなります。

やはり天命に安んずるからこそ、人事を尽くすことができるのではないでしょうか。これがほんとうの宗教の教えです。

(完)


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宗教の怖さ、あるいは統一教会について(つづき) [親鸞の和讃に親しむ(番外編 その2)]

◎宗教の怖さ、あるいは統一教会について(つづき)

犯人の母親に戻りますと、次々と不幸に見舞われたとき、彼女には「どうして自分がこんな不幸に」という劣等感と裏腹に「自分はこんな不幸に見舞われるはずはない」という優越感があったに違いありません。そんな思いでいるところに「どうしてあなたにこんな不幸が舞い込むのでしょう、そこには何かがあるはずです」という魔の声が忍び寄ってくる。本人自身が「これは何かの間違いだ」と思っているのですから、その魔の声に即座に乗ってしまいます、「そうだ、これには何か背景があるに違いない、そうでなければこんなことが起るはずがない」と。こうなるともうマインドコントロールのお手の内であり、コロリとやられてしまいます。

このようにマインドコントロールに引っかかる根っ子に「こんなはずじゃない」、「これは何かの間違いだ」という思いがあります。しかし考えてみますと、人がさまざまな不幸に見舞われるのは、そこにそうなるような因縁があるということです。大急ぎで言わなければなりませんが、これは「因果応報」ということではありません。自分が過去にそのようなる因をつくったから、いまその報いが来ているということではありません(これはカルト集団がよく使う手です)。いま因縁といいますのは、すべてのことがらが縦横無尽につながりあっており、われらには到底見通すことのできないそのつながりのなかでものごとは起こるということです(仏教ではそれを縁起と言います)。その意味で言いますと何ごとも「こんなはずであり」、「これは間違いでも何でもない」ということです。もう一つ言えば、どんなことだって起こり得るということです。

「こんなはずじゃない」の大元にあるのは、「これは〈わたしのいのち〉だ」という思いです。この思いは誰にもありますが、しかしそれと同時に「これは〈ほとけのいのち〉だ」という気づきがあるかどうか。この気づきは「あらゆるいのちは〈ほとけのいのち〉としてひとつにつながりあっている」という気づきですが(親鸞は「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」と言います)、この気づきがありさえすれば「こんなはずじゃない」という思いは起こらず、「たまたま〈わたしのいのち〉が不幸に見舞われただけ」と思えるようになります。


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