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メタファ― [「信巻を読む(2)」その51]

(5)メタファー

ちょっと横道にそれますが、本願(ねがい)と光明(ひかり)と名号(こえ)、これらはみなメタファーであるということ、このことについて考えておきましょう。

ある不思議な「はたらき」が感じられたとき、それを「本願に遇う」と言い、「光明に照らされる」と言い、「名号が聞こえる」と言っているのですが、これは隠喩すなわちメタファーです。ぼくは名号とは何かについて、よく「お前を待っているから、いつでも帰っておいで」という「こえ」が聞こえるという言い方をするのですが、そうしますと、かならずと言っていいほど「わたしにはそんな声は聞こえません」という反応があります。この反応はこれがメタファーであることを理解していないことから起こります。「きみはぼくの太陽だ」ということばに対して、「わたしは太陽なんかではありません、人間です」と反応するようなものです。

ある不思議な「はたらき」が感じられると言いましたが、それをある「気づき」が得られると言うこともできます。

ある思いもかけない「気づき」がおこったとき、それを浄土の教えでは「本願に遇う」とか「光明に照らされる」とか「名号が聞こえる」と言っているのです。それはどのような「気づき」かと言いますと、「これまでわが力で必死に生きていると思っていたが、まてよ、何か大きな力で生かされているのではないか」という「気づき」です。その「気づき」のことを、阿弥陀仏から「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」(本願)がにかけられていると表現し、阿弥陀仏の不思議な「ひかり」(光明)に照らされると言い、十方諸仏の「南無阿弥陀仏」の「こえ」(名号)が聞こえると言っているのです。これらはみな「何か大きな力で生かされている」という「気づき」のメタファーです。

本文に戻りますと、「触光柔軟の願」の「わが光明を蒙りてその身に触るる」という文言は、「ひかり」のメタファーによって「大いなる力により生かされている」という「気づき」が起こったことを言い表し、そして「聞名得忍の願」の「わが名字を聞きて」という文言もまた「こえ」のメタファーにより同じ「気づき」が起こったことを言い表しているのです。


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触光柔軟の願と聞名得忍の願 [「信巻を読む(2)」その50]

(4)触光柔軟の願と聞名得忍の願

では真の仏弟子である証とは何か。まず経典から引かれます。

『大本』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙(かぶ)りてその身に触るるもの、身心柔軟(にゅうなん)にして人天に超過せん。もししからずば、正覚を取らじと。

たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍(無生の生という真理を悟ること)、もろもろの深総持(じんそうじ、仏の教えの精髄が収められた章句のこと。ここでは仏の智慧)を得ずは、正覚を取らじ」と。以上

『無量壽如来会』にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、周遍十方無量無辺不可思議無等界の有情の輩(ともがら)、仏の威光を蒙りて照触(しょうそく)せらるるもの、身心安楽にして人天に超過せん。もししからずは、菩提を取らじ」と。以上

一つ目は『大経』の第三十三願、「触光柔軟(そっこうにゅうなん)の願」で、二つ目は同じく第三十四願、「聞名得忍の願」で、三つ目は『如来会』の第三十三願です。弥陀の光明に照らされることで身心柔軟(身心安楽)となり、弥陀の名号が聞こえることで無生法忍という仏の智慧が得られるというのです。光明に照らされ身心柔軟になること、名号が聞こえることで無生法忍が得られるということ、これが真の仏弟子となった証だということです。

これまで弥陀の本願は名号として衆生に届けられると述べてきましたが、本願が届けられる媒体としてもう一つ光明があります。それについて善導はこう言います、「しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化(せっけ)したまふ。ただ信心をして求念(ぐねん)せしむれば、上一形を尽くし、下十声一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し」(『往生礼讃』)と。親鸞はこれを受けて「行巻」でこう言います、「まことに知んぬ、徳号(名号)の慈父ましまさずは能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁そむきなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき)にあらずは光明土に到ることなし」と。


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弥陀と釈迦 [「信巻を読む(2)」その49]

(3)弥陀と釈迦

弥陀の「ねがい」(本願)は釈迦・諸仏の「こえ」(名号)として一切衆生に届けられると述べてきましたが、ここで疑問が生まれるかもしれません。弥陀はその「ねがい」をどうしてみずから「こえ」として衆生に届けないのだろうか、なぜ釈迦・諸仏の「こえ」が必要となるのだろうかということです。この疑問に答えるためには、そもそも阿弥陀仏とは何かということからはじめる必要があります。阿弥陀仏とは「無量(アミタ)のいのち」であり、われら「有量(ミタ)のいのち」とは次元の異なる存在です。「無量のいのち」と「有量のいのち」の関係はどうなっているかと言いますと、こちらに「有量のいのち」があり、あちらに「無量のいのち」があるのではありません。もし「有量のいのち」とは別のどこかに「無量のいのち」があるとしますと、その「無量のいのち」はもう無量とは言えません(無量には外部がありません)。

としますと「無量のいのち」(永遠なるもの)はあらゆる「有量のいのち」(時間的なるもの)をその中に包摂しているということで、両者はその存在の次元を異にしています。したがって「無量のいのち」がみずから直接「有量のいのち」に「こえ」をかけることはできません。直接呼びかけるには、呼びかけるものと呼びかけられるものが同じ次元にいなければならないからです。かくして阿弥陀仏はその「ねがい」をみずからの「こえ」として届けることはできず、それは十方世界にいる諸仏の発する「こえ」となってはじめて届けられることになります。われらとしては弥陀の「ねがい」に釈迦の「こえ」を通してはじめて接することができるのです。

さて最後の一文「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ」です。「この信行」を得たということは、弥陀の「ねがい」が釈迦の「こえ」として確かにわが身に届いたということですが、そのことにより「かならず大涅槃を超証すべき」と言われます。この「かならず…すべき」という言い方は、大涅槃を超証するのは未来のことであるということを意味していますが、このように未来のことを「かならず」と言えるのは、その証が「いまここ」にあるからです。そして大事なのは、未来に大涅槃を超証することではなく、いますでにその証がこの身に現われていることです。


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真の言は偽に対し仮に対するなり [「信巻を読む(2)」その48]

(2)真の言は偽に対し仮に対するなり

親鸞の自釈に入りましょう。まず「真の言は偽に対し仮に対するなり」とありますが、ここに親鸞独自の見方があります。すなわち、真に対するのは偽ですが、親鸞は真に対するものとして、もう一つ仮(あるいは化)を上げるということです。

『教行信証』の第一巻「教巻」から第五巻「真仏土巻」までは「真」の巻ですが、最後の第六巻「化身土巻」は「化」の巻です。親鸞にとって真の教えとは別に化の教えがあり、それはすぐには真の教えに入れない人を、真の教えへと導くための方便の教えです。災害で家をなくした人のために、本来の家ができるまでのあいだ暮らしていけるように仮設住宅がつくられますが、同じように、本来の真実の教えに至るまでのあいだ、真実の教えを受け入れる準備のために方便の教えが用意されるのです。真の教えに対して偽の教えとは別に化の教えがあるように、真の仏弟子に対して偽の仏弟子とは別に、さらに化の仏弟子がいるということです。

次に「弟子とは、釈迦・諸仏の弟子なり」とありますが、「弥陀の弟子」とは言われません。それは何故かを考えるために、ここであらためて弥陀と釈迦・諸仏との関係をふり返っておきましょう。

鍵となるのが第十七願です。「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」とありますが、ここで「われ」が弥陀であり、その名(名号)を称するのが諸仏(釈迦も娑婆世界の仏として諸仏のひとりです)です。すなわち弥陀の「ねがい」(本願)を一切衆生に知らせるために、十方世界の諸仏が「南無阿弥陀仏」(名号)を称えるのです。そしてその「こえ」をしかと聞受することが信心であり、その人が真の仏弟子、金剛心の行人です。金剛心の行人と言われますのは、信心と本願名号はひとつであり、したがって信心の人は本願名号とひとつになっている人ですから、その信心はもう天地がひっくり返っても壊れることがないからです。


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真の仏弟子 [「信巻を読む(2)その47]

第5回 真の仏弟子

(1) 真の仏弟子

「横超断四流」につづいて、「真の仏弟子」についての注釈がはじまります。まずは親鸞の自釈です。

「真の仏弟子」といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは、釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。

この「真の仏弟子」ということばは、『観経疏』「散善義」の深心釈のなかに出てきました。ふり返っておきますと、「また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふ処をばすなはち去(す)つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく」とあります。かなり前のところで引用された文に出てくる「真の仏弟子」ということばをここで取り上げているのですが、それは、これまで真実の信心のありようを三心一心問答を通して、さらに横超断四流ということばを通して明らかにしてきたが、今度は真実信心を得た人のありようを「真の仏弟子」ということばを手がかりに明らかにしておきたいということでしょう。

そこで、もう一度この深心釈のことばが言おうとしていることを味わっておきたいと思います。仏教に随順し、仏意に随順し、仏願に随順する人が真の仏弟子であるというのですが、仏教に随順し、仏意に随順し、仏願に随順するとは、要するに本願名号に随順するということでしょう。そして本願名号に随順するというのは、「いのち、みな生きらるべし」という「本のねがい」(本願)が「南無阿弥陀仏」という「こえ」(名号)としてやってきたのを確かに聞き受けることができたということです。それが本願名号の信心です。本願名号に「随順する」という言い回しは、本願名号とそれに随順する人が分かれているような印象を与えますが、本願名号と信心は別ではありません。本願名号があるから信心があるのはもちろんですが、同時に信心(聞受)があるから本願名号があるのであり、つまり両者はひとつです。したがって、本願名号とひとつになっている人、それが真の仏弟子です。


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前念に命終して後念にすなはちかの国に生ず [「信巻を読む(2)」その46]

(11)前念に命終して後念にすなはちかの国に生ず

次の『往生礼讃』にも注目すべきことばが出てきます、「前念に命終して後念にすなはちかの国に生ず」と。親鸞はこのことばにも着目し、『愚禿鈔』においてこう述べています、「本願を信受するは、前念命終なり。〈すなはち正定聚の数に入る〉(『論註』)と。即得往生は、後念即生なり。〈即の時必定に入る〉(『十住毘婆沙論』)と。また〈必定の菩薩と名づくるなり〉(同)と」。善導が「前念に命終して後念にすなはちかの国に生ず」と言うのは文字通りの意味で、いのちの終わる瞬間のことですが、親鸞はこれを「本願を信受」する瞬間、「信楽開発の時剋の極促」のこととしています。すなわちその時剋の極促を境として、古いいのちが終わり、新しいいのちが生まれるのだと理解しているのです。

善導の文は、表面的には往生はいのち終わった後であると説いていますが、親鸞はその裏に隠されている真実を引き出そうとしていると言えます。つまり、善導は往生と成仏を重ね合わせて捉えることにより、それは否応なくいのち終わった後のこととして説くことになるのですが、しかし往生ということばに込められているもっとも大事なメッセージは第十八願成就文に「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。…かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」とあるなかに表明されています。すなわち名号が聞こえ信心歓喜する「そのとき」に往生するのであり、それは正定聚不退となることに他ならないということです。

それが「本願を信受するは、前念命終なり。…即得往生は、後念即生なり」ということで、本願信受のときに正定聚不退としての新しいいのちが誕生し、それは成仏するまでつづくということです。つまり、いのち終わるときに往生=成仏するのではなく、信心のときに往生がはじまり、それは成仏までつづくのです。往生というのは臨終という点の出来事ではなく、信心のときから成仏のときまでの線であるということです。その間、身は娑婆にありながら、「そのこころすでにつねに浄土に居す」のです。

(第4回 完)


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欣へばすなはち浄土につねに居せり [「信巻を読む(2)」その45]

(10)欣へばすはなち浄土につねに居せり

このように凡夫は娑婆を厭うことなく、また浄土を願うことがないと述べたあと、注目すべきことばがきます、「厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすはなち浄土につねに居せり」と。娑婆を厭いさえすれば「すなはち」娑婆を超えることができ、浄土を願いさえすれば「すなはち」浄土に居ることができると言うのです。親鸞はこのことばに注目し、性信房宛ての手紙のなかでこう言っています、「光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』には、〈信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す〉と釈したまへり。〈居す〉といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり」と。善導が「すなはち浄土につねに居せり」と述べていることを親鸞が咀嚼して、「そのこころすでにつねに浄土に居す」と言いかえているのです。ここには往生の意味についての大事なメッセージが隠されていると言わなければなりません。

信心を得て娑婆を厭い浄土を願う「そのとき(すなはち)」、娑婆を離れ浄土に居るというのは第十八願成就文の「即得往生」のことを言っていますが、それは何を意味しているかを親鸞が噛み砕き、まず「そのこころ」ということばを加えます。「浄土に居す」とはこの娑婆ではないどこか別の世界に往くことではなく、娑婆世界のただなかで「そのこころ」が浄土に居るということだと述べているのです。その身は娑婆のただなかにありながら、そのこころは浄土にあるということです。そしてさらに「すでに」ということばが加えられます。これは、信心を得たそのときはじめて浄土に居るようになるということではなく、信心のときにはもう「すでに」浄土に居るということです。すなわち、信心を得るとは、もうずっと前から浄土に居ることに「気づく」ことだというのです。信心の前から「すでに」浄土に居るのに、これまでまったく気づかなかった、それにいま気づいたということです。

これが生死を「横さまに超える」ということです。生死のただなかにありながら生死を超えるということ、これが「横超断四流」です。


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凡夫の生死貪じて厭はざるべからず [「信巻を読む(2)」その44]

(9)凡夫の生死貪じて厭はざるべからず

「断四流」について、経典からの引用につづいて、善導の『般舟讃』と『往生礼讃』から引用されます。

光明寺の和尚のいはく、「もろもろの行者にまふさく、凡夫の生死貪じて厭(いと)はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣(ねが)はざるべからず。厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすはなち浄土につねに居せり。隔つればすなはち六道の因亡じ、輪廻の果おのづから滅す。因果すでに亡じて、すなはち形と名と頓に絶えぬるをや」と。

またいはく、「仰ぎ願はくは一切往生人等、よくみづからおのれが能を思量せよ。今身にかの国に生ぜんと願はんものは、行住坐臥にかならずすべからく心を励ましおのれに剋して、昼夜に廃することなかるべし。畢命(ひつみょう)を期(ご)として(この世の命が終わるまで)、上一形(いちぎょう、一生)にあるは少しき苦しきに似如(に)たれども、前念に命終して後念にすなはちかの国に生じて、長時永劫につねに無為の法楽を受く。乃至成仏までに生死を経ず。あに快(たの)しみにあらずや、知るべし」と。以上

前の文が『般舟讃』で、後の文が『往生礼讃』ですが、『般舟讃』の引用文の出だし部分「凡夫の生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず」という言い回しが少し分かりにくいと思います。これは「凡夫というものは生死を貪るものですが、それを厭わなければなりません。また弥陀の浄土を軽しめるものですが、それを願わなければなりません」ということです。凡夫というものはこの娑婆での生活に執着し、そこから離れようとはしないが、苦悩の娑婆を厭うべきであるということ、また浄土へ往きたいと思うことはないが、安楽の浄土をこそ願うべきであるということです。源信はそれを「厭離穢土、欣求浄土」ということばで表現し、「厭離穢土といふは、それ三界は安きことなし、もつとも厭離すべし」、「欣求浄土といふは、極楽の依正は功徳無量なり」と述べています(『往生要集』)。


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洲渚の譬え [「信巻を読む(2)」その43]

(8)洲渚の譬え

親鸞講座のなかでこんな質問が出ました、本願は一度それに気づけば、もうなくなってしまうことはないのでしょうかと。本願の気づきが信心に他なりませんから、この質問は信心は一旦おこればもう消えることはないかということです。ぼくはこうお答えしました、「本願に気づいても、それをどこかに置き忘れてしまうことはあると思います。たとえば、つまらないことで無性に腹を立てているようなとき、本願のことはどこかにいってしまっています。でも本願の気づきそのものが消えることはありません、それはまもなく戻ってくるでしょう」と。これを『涅槃経』の「洲渚の譬え」でいいますと、河のなかの洲渚は激流のなかでときに水中に没してしまっても、いずれ水の上に姿をあらわすように、本願の気づき(信心)はときに煩悩の激流のなかに没しても、激流がおさまるとともにまた姿をあらわすということです。

しばしば引き合いに出される親鸞のことばがあります(「信巻」のもう少し先に出てきます)。「まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷(いた)むべしと」というものです。親鸞はもうすでに「定聚の数に入」っていること、「真証の証(仏の悟り)に近づ」いていることに気づいています。それにもかかわらず「愛欲の広海に沈没し」、「名利の大山に迷惑し」ていると慨嘆しているのです。このように煩悩の海に沈没していることに気づくこと(機の深信です)は深い悲しみですが、しかし忘れてならないのは、その気づきがあるとき、同時にすでに信心の海に入っていることに気づいていて(法の深信です)、そこには深い慶びがあるということです。深い悲しみと深い慶びはひとつになっているのです。

煩悩が消えて菩提があるのではありません、煩悩があって菩提があるのです。これが煩悩即菩提ということです。


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生死の流れを度す [「信巻を読む(2)」その42]

(7)生死の流れを度す

「断四流」に関連して、経典から三つの文が引かれます。

『大本』にのたまはく、「かならずまさに仏道を成りて、広く生死の流を度すべし」と。

またのたまはく(『平等覚経』)、「かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし」と。以上

『涅槃経』にのたまはく、「また涅槃は名づけて洲渚(しゅうしょ、島)とす。なにをもつてのゆゑに、四大の暴河(ぼが)に漂ふことあたはざるがゆゑに。なんらかを四つとする。一には欲暴、二には有暴、三には見暴、四には無明暴なり。このゆゑに涅槃を名づけて洲渚とす」と。以上

これまで生死の流れを「断つ」とか「截る」とか、ここでは「度す」と言われますが、われらが生死の流れを「断ち」、「截り」、「度す」のではありません。われらはあくまでも生死の流れのなかで生きるしかなく、したがって、われらが生死の流れを「断ち」、「截り」、「度す」ということは、みずからわがいのちを断絶することに他なりません。そうではなく、あくまでもわれらは生死の流れのなかを生きながら、あるときその流れが「断たれ」、「截られ」、「度されて」いることに気づくのです。気づいたときには「もうすでに」生死の流れが「断たれ」、「截られ」、「度されて」いるのです。これが「横さまに」ということです。

『涅槃経』は「洲渚の譬え」を出します、涅槃とは激しい生死の流れのなかにあって流されない島のようなものだと。その島に立てば、生死の激流のなかで安心して生きることができます。この譬えが秀逸であるのは生死と涅槃を切り離していないところです。涅槃は生死と別のどこかにあるのではなく、生死の流れのただなかにあるということです。河のなかにある洲渚は水かさが増えますと水のなかに没してしまうこともあるでしょう。しかしどんな激流にも決して流されてしまうことはありません。そのように涅槃も、ときには生死の流れのなかで没してしまうことがあるでしょうが、しかし決して流されてしまうことはありません。


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