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臨終一念の夕 [「信巻を読む(2)」その76]

(6)臨終一念の夕

ここまでのまとめのことば(親鸞の自釈)です。

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚(菩薩の52階梯の中の第51位。仏の妙覚の一つ手前。等正覚、一生補処とも)の金剛心を窮(きわ)むるがゆゑに、龍華三会(りゅうげさんね、龍華樹の下で成道し、三会を開いて法輪を転じるとされる)の暁(あかつき)、まさに無上覚位(仏の妙覚)を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕(ゆうべ)、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同(べんどう、すなわちおなじ)といふなり。しかのみならず、金剛心を獲るものは、すなはち韋提(韋提希)と等しく、すなはち喜・悟・信の忍(韋提希が賜った無生法忍の三つの相。喜忍、悟忍、信忍)を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到(しんしんてっとう、真実の信心にまことに到る)するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。

弥勒大士と念仏の衆生が対比され、前者は「龍華三会の暁」に、後者は「臨終一念の夕」に大般涅槃を超証すると言われます。どちらも等覚の位にあるという点では同じですが、前者は「暁」に、後者は「夕」に涅槃を得ると言われているのが印象的です。自力金剛心の弥勒大士は別としまして(それはわれらには思いも及ばないことです)、横超の金剛心の衆生は「臨終一念の夕」に涅槃に至ると言われていることに思いを馳せたいと思います。

曽我量深氏がどこかで、われらが仏となるのは「いのちが終わってから」ではなく「いのちが終わるとき」であると言われていたのを思い出します。この二つは同じようで、実はまったく違います。「いのちが終わってから」でしたら、いのちが終わった後につづく時間でのことを言っていますが、「いのちが終わるとき」では、文字通り、いのちが終わるそのときのことです。

まず、「いのちが終わる」と言うとき、それは「わたしのいのち」が終わるという意味であり、「いのちそのもの」が終わるのではないことを確認しておきたいと思います。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」ですが、その「わたしのいのち」が終わるということであり、「ほとけのいのち」はそのまま何も変わることはありません。


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