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サンジャヤ・ペーラティプッタ [「信巻を読む(2)」その92]

(10)サンジャヤ・ペーラッティプッタ

三人目の大臣です。

またひとりの臣あり、なづけて実徳(じっとく)といふ。また王の所に到りて、すなはち偈を説きていはく、〈大王、なんがゆゑぞ身に瓔珞(ようらく、飾りもの)を脱ぎ、首の髪蓬乱(ほうらん、ぼさぼさに乱れる)せる。乃至かくのごときなるや。乃至 これ心痛むとやせん、身痛むとやせん〉と。王すなはち答へていはく、〈われいま身心あに痛まざることを得んや。わが父先王、慈愛仁惻(にんしき、情け深い)して、ことに見て矜念(こうねん、哀れむ)せり。実に過咎なきに、往きて相師(そうし、占い師)に問ふ、相師答へてまふさく、《この児生れをはりて、さだめてまさに父を害すべし》と。この語を聞くといへども、なを見て瞻養(せんよう、養育)す。むかし智者の、かくのごときの言をなししを聞きき。《もしひと母に通じ、および比丘尼を汚し、僧祇物(そうぎもつ、僧団の所有物)を偸み、無上菩提心をおこせる人を殺し、およびその父を殺さん。かくのごときの人は必定してまさに阿鼻地獄に堕すべし》と。われいま身心あに痛まざることを得んや〉と。大臣またいはく、〈やや、願はくは大王、また愁苦することなかれ。乃至 一切衆生みな余業(まだ結果があらわれていない業)あり。業縁をもつてのゆゑにしばしば生死を受く。もし先王に余業あらしめば、王いまこれを殺さんに、つひになんの罪かあらん。やや、願はくは大王、こころを寛(ゆたか)にして愁ふることなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦すれば、愁へつひに増長す。人眠りをこのめば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪じ酒を嗜むも、またまたかくのごとし》と。乃至 闍耶毘羅胝子(さんじゃやびらていし、サンジャヤ・ペーラッティプッタ)〉。

先の蔵徳は阿闍世が父王を殺害したのは阿闍世自身の運命のなせるわざであり、罪はないとしましたが、今度の実徳は殺害された頻婆娑羅王の業縁を持ち出し、頻婆娑羅はわが子に殺される宿命にあったのだから、阿闍世に罪はないとします。いずれにしてもすべては運命によって定められているのだということです。


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運命と宿業 [「信巻を読む(2)」その91]

(9)運命と宿業

阿闍世は蔵徳の慰問に、先の月称の時と同じく「かくのごときの果報、阿鼻獄にあり」と怖れ苦しんでいると答えますが、蔵徳は迦羅羅虫(かららちゅう)や騾馬(らま)を例に出して、父を害して国王となるのはそうなるような定めにあるのだと応じ、六師外道の二人目、マッカリ・ゴーサーラを紹介します。この人は運命論者で、すべては運命により決定されていて、自由意志というものはないという立場に立ちます。この立場からは、阿闍世が父を害して王となったのは、そのような運命にあったのであり、阿闍世の意志によるのではないということになり、したがって阿闍世に何の罪もないとなります。

さてここで考えておきたいのはこの運命論と宿業の思想の関係です。宿業と言いますのは、釈迦の縁起の思想を源としており、各自のなすことはこれまでの無数の縁(つながり)のなかで育まれたものであるとする考えです。『歎異抄』第13章の「わがこころのよくて殺さぬにはあらず」という親鸞の有名なことばは、人を殺さなくて済んでいるのは、わがこころがよいからではなく、幸いにしてその縁がないからだけのことであるということです。逆に、その縁があれば、恐ろしいことに人を千人でも殺してしまうということになります。すべては宿業により決定されているということですから、これは運命論と同じように見えます。

しかし運命論は責任を否定し、したがって罪を否定するのに対して、宿業論は責任を否定することはなく、したがって罪を否定することもありません。むしろ責任と罪を一身に負おうとします。この違いは、運命論は運命を自分とは関係なく、自分を外から操る力として捉えているのに対して、宿業論は宿業を自分とは関係がないどころか、自分そのものであるとして、宿業のすべてに責任があると捉えるというところにそのもとがあります。さて阿闍世は自分の罪の大きさに恐れおののいているのですから、この運命論に心を動かされるとは思えません。運命論は己の責任を外部から追及されたときに、それを否定するための武器としてつかわれる思想です。


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マッカリ・ゴーサーラ [「信巻を読む(2)」その90]

(8)マッカリ・ゴーサーラ

二人目の大臣が登場します。

またひとりの臣あり、名づけて蔵徳(ぞうとく)といふ。また王の所に往きて、この言をなさく、〈大王、なんがゆゑぞ面貌憔悴(めんみょうしょうすい)して、口(しんく)乾燥し、音声微細(おんじょうみさい)なるや。乃至 なんの苦しむところあつてか、身痛むとやせん、心痛むとやせん〉と。王すなはち答へていはく、〈われいま身心いかんぞ痛まざらん。われ痴盲にして慧目あることなし。もろもろの悪友(あくう)に近づきて、これよく提婆達多(だいばだった、釈迦の従弟、阿難の兄、釈迦の教団の乗っ取りをはかる)悪人の言に随ひて、正法の王に横に逆害を加す。われ昔かつて智人の偈説せしを聞きき。《もし父母、仏および弟子において、不善の心を生じ、悪業を起さん。かくのごときの果報、阿鼻獄(阿鼻地獄、無間地獄のこと)にあり》と。この事をもつてのゆゑに、われ心怖(しんぶ)して大苦悩を生ぜしむ。また良医の救療(くりょう)を見ることなけん〉と。大臣またいはく、〈やや、願はくは大王、しばらく愁怖することなかれ。法に二種あり、一には出家、二には王法なり。王法といふは、いはく、その父を害して、すなはち国土に王たるなり。これ逆なりといふといへども、実に罪あることなけん。迦羅羅虫(かららちゅう)のかならず母の腹を破りて、しかして後、いまし生ずるがごとし。生の法かくのごとし。母の身を破るといへども実にまた罪なし。騾腹(らふく)の懐妊(騾馬は子を孕んで死ぬと言われる)等またまたかくのごとし。治国の法、法としてかくのごとくなるべし。父兄(ぶきょう)を殺すといへども、実に罪あることなけん。出家の法は、乃至蚊蟻(もんぎ)殺す、また罪あり。乃至 王ののたまふところのごとし、《世に良医の身心を治するものなけん》と。いま大師あり、末伽梨句舎梨子(まかりくしゃりし、マッカリ・ゴーサーラ)と名づく。一切知見して衆生を憐愍すること、赤子(しゃくし)のごとし。すでに煩悩を離れて、よく衆生三毒(貪瞋癡)の利箭(りせん、鋭い矢)を抜く。乃至 この師いま王舎大城にいます。やや、願はくは大王、その所に往至して、王もし見ば衆罪消除せん〉と。時に王答へていはく、〈あきらかによくかくのごときわが罪を滅除せば、われまさに帰依すべし〉と。


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世に五人あり、地獄をまぬかれず [「信巻を読む(2)」その89]

(7)世に五人あり、地獄をまぬかれず

これから六人の大臣が次々とやって来て悩める阿闍世王を慰め、それぞれが六人の思想家を紹介します。それは六師外道とよばれる自由思想家たちで、釈迦の頃、マガダ国を中心に活躍していました。当時のインド・ガンジス中流域は歴史の大きな曲がり角にあり、商工業の発達とともに都市経済が進展し、農村を地盤とするバラモン教の思想・文化に対する疑問や批判が噴出してきたのです。それを代表するのが六師外道で、それぞれの立場からバラモン教の道徳規範を攻撃していました。その一人がここに出てくるプーラナ・カッチャーヤナで、徹底した道徳否定説を取り、善悪の業報(善因には善果、悪因には悪果)も否定します。

さて阿闍世は大臣・月称から「何を悩まれているのですか」と問われ、「地獄をまぬかれず」と答えます。それに月称は「誰か地獄を見た人がいるのですか」と応じ、プーラナを紹介するのですが、ここで考えておきたいのは「悪いことをすれば地獄に堕ちる」という業報の感覚です。輪廻転生の思想をどう捉えるべきかという大問題についてはいまはおき、阿闍世が「あんなことをすれば地獄行きに決まっている」と怖れていることを考えたいと思います。先ほど、阿闍世の後悔は行為の結果の後悔ではなく、行為それ自体の後悔だと言いましたが、ここにきて地獄行きという結果を後悔しているのではないかという疑問が浮上します。

彼は「あんなことをしたから、地獄に行くはめに陥った」ことを後悔しているのでしょうか。そうではないと答えましょう。地獄に行くことを怖れているのではなく、地獄に行かなければならないほどのことをしてしまったことを悔いているのです。決して悪い結果になったことを悔いているのではなく、あくまでしてしまったこと自体を悔いていると言わなければなりません。だからこそ、月称からプーラナのところへ行くことを勧められても、さほど心を動かされたようには見えないのです。


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プーラナ・カッチャーヤナ [「信巻を読む(2)」その88]

(6)プーラナ・カッチャーヤナ

一人目の大臣が登場します。

時に大臣あり、名つけて月称(がっしょう)といふ。王の所に往至して、一面にありて立ちて(傍らに立って)まうしてまうさく、〈大王なんがゆゑぞ愁悴(しゅうすい)して顔容(げんよう)悦ばざる。身痛むとやせん、心痛むとやせん〉と。王、臣に答へていはまく、〈われいま身心あに痛まざることを得んや。わが父辜(つみ)なきに横に逆害を加す。われ智者に従ひて、かつてこの義を聞きき。《世に五人あり、地獄をまぬかれずと。いはく五逆罪なり》と。われいますでに無量無辺阿僧祇(あそうぎ、数えきれないほど)の罪あり、いかんぞ身心をして痛まざることを得ん。また良医のわが身心を治せんものなけん〉と。臣、大王にまふさく、〈大きに愁苦することなかれと。すなはち偈を説きていはく、《もしつねに愁苦せば、愁へつひに増長せん。人眠りをこのめば、眠りすなはちしげく多きがごとし。婬を貪じ酒を嗜(たしな)むも、またまたかくのごとし》と。王ののたまふところのごとし、《世に五人あり、地獄をまぬかれず》とは、たれか往きてこれを見て、来りて王に語るや。地獄といふは、ただちにこれ世間に多く智者説かく、王ののたまふところのごとし、《世に良医の身心を治するものなけん》と。いま大医あり、富蘭那(ふらんな、プーラナ)と名づく。一切知見して自在を得て、さだめて畢竟(ひっきょう)じて清浄梵行を修習して、つねに無量無辺の衆生のために、無上涅槃の道を演説す。もろもろの弟子のために、かくのごときの法を説けり。《黒業(悪い行い)あることなければ、黒業の報なし。白業(びゃくごう、善い行い)あることなければ白業の報なし。黒白業なければ黒白業の業報なし。上業(すぐれた行為)および下業(劣った行為)あることなし》と。この師いま王舎城のうちにいます。やや、願はくば大王、屈駕(くつが、まげて足を運ぶ)してかしこに往け。この師をして身心を療治せしむべし〉と。ときに王答へていはまく、〈あきらかによくかくのごときわが罪を滅除せば、われまさに帰依すべし〉と。


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二種類の後悔 [「信巻を読む(2)」その87]

(5)二種類の後悔

後悔とは、自分のしたことをふり返って、「あのとき、あんなことをしなければよかった」、あるいは「もっと違うようにすればよかった」と悔やむことですが、その「しなければ(しておけば)よかった」の意味に二つあるのではないでしょうか。一つは「あんなことをしなければ(しておけば)、もっといい結果になったのに」ということです。行為の選択を誤った結果として、悪い状況を招いてしまったという後悔で、これは要するに損得勘定としての後悔です。これが後悔の大半を占めるのではないかと思われますが、しかしもう一つ別の後悔があります。

それは損得勘定ではなく、「あゝ、あのときあんなことをしなければ(しておけば)よかった」と悔やむことです。「あんなことをした(しなかった)」結果がどうであろうと(たとえそのことでいい結果がもたらされたとしても)、そんなことには関係なく、「あんなことをした(しなかった)」こと自体を悔やむのです。これは慚愧(ざんぎ)としての後悔で、自分のしたことを恥じ入ることです。親鸞が先に「恥ずべし、傷むべし」と言っていたあの後悔です。

さて阿闍世の後悔はどちらでしょう。彼は「あんなことをしなければよかった」と悔いているのですが、それは「あんなことをしなければ、こんなにひどい結果にならなかったのに」と悔いているのでしょうか、それとも、その結果がどうなったかに関係なく、「あんなことをしてしまった」こと自体を悔いているのでしょうか。答えは明らかに後者です。熱が出たり瘡に苦しんだりといった悪い結果はありますが、それは彼の行為の結果というよりも、行為を悔いることによるのですから、結果について悔やんでいるのではありません。

先回りすることになりますが、大臣たちは「後悔なさいますな」と慰めるのに対して、医者の耆婆(ぎば)ひとりはこういいます、「善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔(じゅうけ)を生じて慚愧を懐けり」と。そして慚愧あってはじめて救いに与れると説くのです。


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おのれが心に悔熱を生ず [「信巻を読む(2)」その86]

(4)おのれが心に悔熱を生ず

いよいよドラマの幕が開きます。

またのたまはく、「その時に、王舎大城に阿闍世王あり。その性、弊悪(へいあく)にしてよく殺戮(せつろく)を行ず。口の四悪(妄語、綺語、悪口、両舌)、貪・恚・愚痴を具して、その心熾盛(しじょう)なり。乃至 しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪著するがゆゑに、父の王辜(つみ)なきに、横に(よこさまに、非道にも)逆害を加す。父を害するによりて、おのれが心に悔熱(けねつ)を生ず。乃至 心悔熱するがゆゑに、遍体に瘡(かさ)を生ず。その瘡臭穢(しゅうえ)にして附近(ふごん)すべからず。すなはちみづから念言すらく、〈われいまこの身にすでに華報(けほう、現世の報い)を受けたり。地獄の果報まさに近づきて、遠からずとす〉と。その時に、その母韋提希后、種々の薬をもつてためにこれを塗る。その瘡つひに増(ぞう)すれども、降損(ごうそん)あることなし。王すなはち母にまふさく、〈かくのごときの瘡は心よりして生ぜり、四大(地、水、火、風。いまは肉体という意味)より起れるにあらず。もし衆生よく治することありといはば、この処(ことわり)あることなけん〉と。

ここで注目したいのは、主人公である阿闍世はすでにして自分のしたことに対して激しい悔いのなかにあるということです。彼は「その性、弊悪にしてよく殺戮を行ず。口の四悪、貪・恚・愚痴を具して、その心熾盛なり」とされますから、世の極悪人の常として悔いなどは無縁の人かと思いきや、激しく後悔しており、それが心の熱となりまた瘡となって身体にも出ています。この後に登場してくる大臣たちは、その様子を見ては「大王なんがゆゑぞ愁悴(しゅうすい)して顔容(げんよう)悦ばざる。身痛むとやせん、心痛むとやせん」と問いかけ、口々に「大きに愁苦することなかれ」と慰めます。「どうして後悔などするのですか、そんな必要はありません」と元気づけようとするのです。

そこで考えておきたいのが、後悔とは何かということ、後悔には二種類あるのではないかということです。


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なぜこれほど長く [「信巻を読む(2)」その85]

(3)なぜこれほど長く

このように見ることで、ここで『涅槃経』から阿闍世救済の説話が引用されている理由が了解できますが、しかしそれにしてもこの長さはどうでしょう。ここまで長く引く意味はあるのでしょうか。まず思いますのは、これから読んでいくことで分かりますが、ここで語られているのはいくつかの場面を持つドラマであり、人を惹きつける力があるということです。親鸞としては、途中を省略しながらも、なるべくこのドラマの持つ力をそぐことなく伝えたいという思いがあったのではないでしょうか。そしてもう一つ思いますのは、親鸞のこの出来事への強い思い入れです。顧みますとすでに「総序」において、この事件のことが語られていました、「しかればすなはち、浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり、云々」と。これは『観経』がこの事件を機として説かれたことを述べているのです。

さらに言いますと、親鸞には阿闍世が救われるかどうかに浄土の教えの成否がかかっているとさえ思われたのではないでしょうか。この引用の直前に「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」という悲嘆の述懐がありましたが、この悲歎の裏側には、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」いるような自分を弥陀の大悲は「うむことなく、つねにわが身を照らしたまふ」という悦びがはりついています。その地続きに、五逆の罪を犯した阿闍世もまた、「大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ」のでなければ、大悲という名に値しないという強い思いがあるということです。

親鸞が「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑」することと、阿闍世の大逆悪とでは雲泥の差があると思われるかもしれませんが、しかしいずれも我執をもととしている点では何も変わらず、ただそれがそれぞれの縁によりどのような姿かたちを取るかの違いにすぎません。


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ただ五逆と誹謗正法を除く [「信巻を読む(2)」その84]

(2)ただ五逆と誹謗正法を除く

この序説部分では釈迦が迦葉に治しがたい病が三つあると語ります。それが謗法(ほうぼう)と五逆と一闡提(いっせんだい)で、謗法は仏法を謗ること、五逆は殺父・殺母・殺阿羅漢(修行を完成した聖者を殺す)・出仏身血(仏を傷つける)・破和合僧(教団を分裂させる)という五つの重罪、そして一闡提は世俗の快楽を求めるばかりで正法を信じないものを言います。この三つの罪はただ仏だけが治すことができると述べられ、これからはじまる阿闍世救済の物語の伏線とされます。

まず考えておきたいのは、この長大な引用の位置づけです。いったい親鸞はどういう意図でこれをここに置いたのだろうかということです。

この引用が終わったところで親鸞はこう言います、「ここをもつていま大聖の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑(たの)み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀(こうあい、深くあわれむ)して治す、これを憐憫(れんみん)して療したまふ」と。謗法・五逆・一闡提という難化の三機も、弥陀の本願という妙薬はこれをたちどころに治療してしまうということです。そしてそれにすぐつづけて「それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には〈唯除五逆誹謗正法(ただ五逆と誹謗正法を除く)〉といひ、云々」と述べています。

これを見ますと、ここで『涅槃経』を引用している親鸞の頭には第十八願の「唯除五逆誹謗正法」という但し書きがあったことが了解できます。

これまで「三心一心問答」を中心として、真実の信心とは何かについてさまざまな角度から述べられてきたのですが、第十八願に「唯除五逆誹謗正法」という除外規定があることについては触れられませんでした。しかし親鸞としてはこれを無視してきたのではなく、まず信心の本質を明らかにして、その上でこの問題にとりかかろうとしたのではないでしょうか。これまでのところで、真実の信心とは如来から賜ったものであり、したがって如来の願心と「ひとつ」であることがはっきりしましたから、その大地の上に立って、いよいよこの困難な問題にとりかかれると考えたと思われます。そこで五逆誹謗正法の具体例として阿闍世の逆悪を取り上げ、『涅槃経』にはどのように説かれているかを参照しようとしたのに違いありません。


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難治の機 [「信巻を読む(2)」その83]

第8回 六師外道

(1)  難治の機

これから『涅槃経』から長い引用がはじまります。阿闍世の救いを廻る説話ですが、まず「難治の三機」について語られます。

それ仏、難治の機(治しがたい病)を説きて、『涅槃経』にのたまはく、「迦葉(かしょう。釈尊十大弟子の一人。頭陀第一とされ、第一結集の中心人物)、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提(いっせんだい)なり。かくのごときの三病、世のなかに極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。善男子、たとへば病あればかならず死するに治することなからんに、もし瞻病(せんびょう、瞻とは看ることで、看病)、随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病随意の医薬なからん、かくのごときの病、さだめて治すべからず(普通の読みは「たとへば病あり、必死にして治することなきがごとし。もしは瞻病随意の医薬あるも、もしは瞻病随意の医薬なきも、かくのごとき病はさだめて治すべからず」)。まさに知るべし、この人かならず死せんこと疑はずと。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。仏・菩薩に従ひて聞治を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。もし声聞・縁覚・菩薩ありて、あるいは法を説き、あるいは法を説かざるあらん。それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむることあたはず」と。以上

ここで、これまでの流れをふり返っておきますと、「信巻」のメインとも言うべき「三心一心問答」が終わったあと、「横超断四流」についての注釈(第3回の途中から第4回)、つづいて「真の仏弟子」についての注釈があり(第5回から第7回まで)、その最後に「悲しきかな愚禿鸞」の述懐がありました。その後にこの文がきて、これから岩波文庫版のテキストで言いますと40ページちかく『涅槃経』からの引用がつづくことになります。そこで阿闍世の父王殺しが取り上げられ、五逆罪をはじめとする難治の機が釈迦の教えにより救われていく話が語られていくことになるのです。


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