SSブログ

往生とは [「『証巻』を読む」その35]

(4)往生とは

往相は今生で、還相は来生という通念は、往相・還相ということばそのものに根差しています。「往く相」と「還る相」というのですから、まず「往く」があり、それが終わってから「還る」があると考えるのが自然で、それ以外にどう考えたらいいのかと言われるかもしれません。そしてここ(娑婆)から浄土へ往って、再びここに還るということになりますと、これは今生と来生をまたぐことにならざるを得ません。かくして往相は今生、還相は来生ということに落ちつくわけですが、ここには往生を空間的移動とイメージする抜きがたい観念があります。そしてこの観念もまた往生ということばそのものに根差しています。「往って生まれる」というのですから、こことは別のどこか(アナザーワールド)に移動して生まれかわるとしか考えられないのです。

ここで繰り返しを厭わず第十八願成就文にもういちど戻らなければなりません。そこに「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す(願生彼国、即得往生、住不退転)」とありますが、これは本願を信じ、かの国に生まれたいと願ったそのとき往生しているということを意味します。親鸞はこの文について『唯信鈔文意』で次のようにかみ砕いてくれます、「願生彼国は、かのくににうまれんとねがへとなり。即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは、不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり。これを即得往生とは申すなり。即はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり」と。

ここにこれ以上望めないほどはっきりと、往生とはこことは別のどこかに移動することではなく、信心をえたそのとき(「ときをへず、日をへだてず」)正定聚となることであることが言われています。往生とは「わたし」がここではない何処かに往くことではなく、信心を得たそのとき、これまでの古い「わたし」が正定聚という新しい「わたし」になることに他なりません。親鸞はそのことを善導の「前念命終、後念即生(前念に命終し、後念に即生す)」ということばを借りながら、しかしそれを換骨奪胎して、「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり」(『愚禿鈔』)と述べています。善導は命終を文字通りの意味で使っていますが、親鸞はそれをこれまでの古い「わたし」が終わることだとするのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問