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聖道と浄土 [「『証巻』を読む」その25]

(5)聖道と浄土

この文を読みますと、その底に道綽から善導へと受け継がれてきた流れとしての「聖道門と浄土門の峻別」の志向が強く感じられます。「末法の世」という感覚とともに、もうこれまでの聖道門は通用しなくなり、浄土門の時代がはじまったという鮮烈な思いが伝わってきます。これは仏教に新しいページを開いたものとして評価するべきであるのはもちろんですが、ただそれと同時に忘れてならないのは、聖道門も浄土門も同じ釈迦仏教であるということです。

善導のことばをそのままに受けとりますと、聖道門の教えはもはやわれらがごとき「信外の軽毛」には及びもつかず、浄土門の教えだけがわれらを救ってくれるということで、両者はもうまったく別の仏教であるかのように印象づけられます。確かに聖道門において伝承されてきた縁起や無我の教えと、浄土門で説かれる本願他力の教えは、その見かけがまったく異なり、どこにも接点がないかのように思われます。そもそもつかわれることばが、一方では「論理のことば」であるのに対して、他方では「物語のことば」というように異種です。

しかし両者の違いに目を奪われることから生まれてくるのは争いです。互いにまったく異なるように見えるにもかかわらず、同じ仏教を名のることから、どちらが仏教として正統であるかという争いが起こることになります。これはどの宗教の歴史においてもお馴染みの正統・異端論争です。確かに「どう違うか」を明確にすることは大事なことですが、しかし「どう違うか」が問題となるのは、その前提として「どこかで同じ」ということがあるからです。「どこかで同じ」であるからこそ「どう違うか」が問われることになるのであり、そもそもまったく違うものについては「どう違うか」と問うことはありません。

「どこかで同じ」であると同時に「何かが違う」のですが、どちらに力点を置くかでその人の立ち位置が異なってきます。前者に重きを置く人は、同じであること、つながっていることを大事にした上で、「どう違うか」を考えようとしますが、後者に目を奪われる人は、「どこかで同じ」が吹っ飛んでしまい(というよりも、つながりが見えていないということです)、ともに天を戴かずとなります。宗教の正統・異端論争が起ってくるのはここからです。


タグ:親鸞を読む
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