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異と同 [「『証巻』を読む」その26]

(6)異と同

聖道門と浄土門はその見かけがまるで異なるにもかかわらず、どちらも仏教を名のるからには「どこかで同じ」であるはずです。ではそれは何かといいますと、「わたしへの囚われ(我執)」です。

まず聖道門の代表的な教えとして縁起と無我を取り上げましょう(八宗の祖とされる龍樹は空と言いますが、これは縁起と無我を言い替えたものに他なりません)。縁起とは「あらゆるものは他のすべてのものと縦横無尽につながりあっており、そのつながりから離れて自立したものは何ひとつない」ということです。初期経典にはそれが「これあるによりてかれあり、これ生ずるによりてかれ生ず」と説かれています。そしてそこから「『わたし』もまた他のすべてのものと無尽につながっているから、それだけとして自立した『わたし』はない」ということが出てきますが、これが無我です。われらは「第一起点としてのわたし」があると思い込んでいますが、それは「わたしへの囚われ」に他ならないということです。

一方、浄土門の教えとは何かとなれば、言うまでもなく本願他力(本願力)です。「若不生者、不取正覚(もし生まれずは、正覚を取らじ)」すなわち「一切の衆生が救われないならば、わたしの救いもない」という弥陀の本願が、「南無阿弥陀仏」すなわち「一心正念にしてただちに来れ」という声としてわれらに届けられ、それが聞こえたときにわれらに救いが訪れるということです。これは、われらの救いはすべて「如来のちから」によりはからわれており、「わがちから」は無功であるということに他なりません。しかるにわれらは「わがちから」にたより、「わがはからひ」で救いを得ようとしているが、それは「わたしへの囚われ」であると言わなければなりません。法然がつねに言っていたという「義なきをもつて義とす」とはそのことです。

かくして聖道門と浄土門は、「わたしへの囚われ」という核心的な点においてつながっていることがはっきりしました。


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聖道と浄土 [「『証巻』を読む」その25]

(5)聖道と浄土

この文を読みますと、その底に道綽から善導へと受け継がれてきた流れとしての「聖道門と浄土門の峻別」の志向が強く感じられます。「末法の世」という感覚とともに、もうこれまでの聖道門は通用しなくなり、浄土門の時代がはじまったという鮮烈な思いが伝わってきます。これは仏教に新しいページを開いたものとして評価するべきであるのはもちろんですが、ただそれと同時に忘れてならないのは、聖道門も浄土門も同じ釈迦仏教であるということです。

善導のことばをそのままに受けとりますと、聖道門の教えはもはやわれらがごとき「信外の軽毛」には及びもつかず、浄土門の教えだけがわれらを救ってくれるということで、両者はもうまったく別の仏教であるかのように印象づけられます。確かに聖道門において伝承されてきた縁起や無我の教えと、浄土門で説かれる本願他力の教えは、その見かけがまったく異なり、どこにも接点がないかのように思われます。そもそもつかわれることばが、一方では「論理のことば」であるのに対して、他方では「物語のことば」というように異種です。

しかし両者の違いに目を奪われることから生まれてくるのは争いです。互いにまったく異なるように見えるにもかかわらず、同じ仏教を名のることから、どちらが仏教として正統であるかという争いが起こることになります。これはどの宗教の歴史においてもお馴染みの正統・異端論争です。確かに「どう違うか」を明確にすることは大事なことですが、しかし「どう違うか」が問題となるのは、その前提として「どこかで同じ」ということがあるからです。「どこかで同じ」であるからこそ「どう違うか」が問われることになるのであり、そもそもまったく違うものについては「どう違うか」と問うことはありません。

「どこかで同じ」であると同時に「何かが違う」のですが、どちらに力点を置くかでその人の立ち位置が異なってきます。前者に重きを置く人は、同じであること、つながっていることを大事にした上で、「どう違うか」を考えようとしますが、後者に目を奪われる人は、「どこかで同じ」が吹っ飛んでしまい(というよりも、つながりが見えていないということです)、ともに天を戴かずとなります。宗教の正統・異端論争が起ってくるのはここからです。


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第3回、本文2 [「『証巻』を読む」その24]

(4)第3回、本文2

今度は善導『観経疏』から二文引かれます。まずは「玄義分」から。

光明寺の『(しょ)』にいはく、「()(がん)といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上(ぞうじょう)(えん)とせざることなしとなり。また仏の密意()(じん)なれば、教門をして(さと)りがたし。(さん)(げん)(十住・十行・十回向)・(じゅっ)(しょう)(十地)測りて(うかが)ふところにあらず。いはんやわれ信外(しんげ)軽毛(きょうもう)(十信の位にも入ることのできない凡夫)なり。あへて旨趣(ししゅ)を知らんや。仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣(はっけん)し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに()びここに(つか)はす、あに()かざるべけんや。ただねんごろに法に(つか)へて、(ひつ)(みょう)(一生)()として、この穢身を捨てて、すなはちかの法性(ほっしょう)の常楽を証すべし」と。

『観経疏』は「玄義分」・「序分義」・「定善義」・「散善義」の四巻仕立てで、「玄義分」では善導がこれから『観経』を注釈するについて、その基本方針が述べられますが、親鸞が「玄義分」のなかでもとりわけこの文を取り上げているのは、ここに善導浄土教のエッセンスがあるという思いからに違いありません。まず『大経』の弘願の教えについて、われらの往生はひとえに阿弥陀仏の大願業力(本願力)によるものであると、その本質を簡潔かつ的確に言い表しています。

そして注目すべきはその後につづく文で、仏の密意は「三賢・十聖」もはかり知ることができず、まして「信外の軽毛」のわたしのごときものには及びもつかないと述べられています。

菩薩道には十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚(仏の覚り)の五十二階位があるとされ、十信位を外凡、十住・十行・十回向位を内凡あるいは三賢、十地位を十聖といいますが、善導はみずからを十信にも入らない「信外の軽毛」と謙遜しているのです。そして仏の深い悟りの境地は「三賢・十聖」もうかがい知ることができず、われらがごときものには無縁であると述べます。ところがそのようなわれらを「釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎」してくださり、本願に遇うことができれば、いのち終わったのちに「法性の常楽を証す」ことができると言うのです。


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第一起点としての「わたし」 [「『証巻』を読む」その23]

(3)第一起点としての「わたし」

釈迦が菩提樹の下で悟った(目覚めたと言った方がいいかもしれません、気づきを得たということですから)のは縁起とか無我だとされます。縁起や無我とは「あらゆるものは互いに縦横無尽につながりあい、そのつながりから離れて自立しているものは何ひとつない」ということです。これは第一起点としての「わたし」はないということに他なりません。「わたし」もまた他のあらゆるものとの縦横無尽のつながりのなかにあり、それから離れて「純粋な起点」であることはできないということです。

さてこのことは何を意味するのか。

釈迦は「わがちからにて」救いを手に入れようとしました。「わたし」が救いをゲットしようとしたのです。しかしどう頑張ってもできず、それを一旦うち切ったときに、ある気づきが訪れた。それは「わたし」が救いをゲットしようとすること自体が救いを遠ざけていたということを意味します。救いを「こちらから」ゲットしようとすることそのことが、救いの障碍になっていることに気づいた。これは、救いは「むこうから」やってくるしかないということです。あるいはこうも言えます、「わたし」が救いをゲットすることはできず、逆に、救いが「わたし」をゲットするのだと。

「救いはむこうから」という気づき自体「こちらから」得ることはできません、これまた「むこうから」やってくるしかないのです。

浄土教において、なぜ釈迦は自らの教えを説くのではなく、「ただ弥陀の本願海を説く」のかを考えてきました。それを要するに、釈迦自身が「むこうから」やってきた気づきに救われたからであり、「弥陀の本願海」とは「むこうから」ということを表現するものということです。「こちらから」とは「わがちからにて」あるいは「わがはからひにて」ということであるのに対し、「むこうから」とは「弥陀のちからにて」あるいは「弥陀のはからひにて」ということです。


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救いは「むこうから」 [「『証巻』を読む」その22]

(2)救いは「むこうから」

先回の終わりに、救いの本質に「いま」があるという話をしました。救いは「いま」にしかないということです。そして救いの本質にはもうひとつ、「むこうから」ということがあります。救いは「むこうから」でしかないということ、これが弥陀と釈迦の関係を考える鍵となります。なぜ釈迦は自らの教えを説くのではなく、「ただ弥陀の本願海を説く」のかと言えば、救いは「むこうから」でしかないからです。どういうことか、順序だって考えていきましょう。

「むこうから」の反対は「こちらから」ですから、救いは「むこうから」でしかないというのは、それは「こちらから」得ることはできないということです。

釈迦は29歳のとき出家しました。そして救いを得ようと6年のあいだ森の中で修行に励みました。しかし得られない。彼は苦行を中断して尼連禅河で沐浴し、村娘から捧げられた乳粥を飲んで体力を回復して、ブッダガヤーの菩提樹の下で沈思瞑想しました。そのとき彼に大悟(ある気づき)が訪れたと仏伝は教えてくれます。これは何を意味するのか。よく言われるのは中道ということで、悟りは苦と楽の中道において得られるということですが、これを別様に考えてみたい。

釈迦は救いを「こちらから」得ようとしたが果たせず、それは「むこうから」やってきたということです。

「こちらから」とは「わがちからにて」(『歎異抄』5章)あるいは「わがはからひにて」(同6章)ということです。われらは何ごとも「わがちからにて」なさねばならないと思っています。もちろん他の力も借りなければなりませんが、そうするのも「わがはからひ」に他なりません。とにかく「わたし」がすべての第一起点であり、救いを得るのもこの「わたし」であると思い込んでいます。さてしかしこの「わたし」が第一起点という思い込み(囚われ)に問題の根があるのです。


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第3回、本文1 [「『証巻』を読む」その21]

第3回 救いは「むこうから」

(1)  本文1

『論註』の後、親鸞は道綽の『安楽集』から次の文を引きます。

『安楽集』にいはく、「しかるに二仏(弥陀と釈迦)の神力また(さい)(とう)なるべし。ただし釈迦如来おのれが能を()べずして、ことさらにかの長ぜ(あらわ)したまふことは、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと(おぼ)してなり。このゆゑに釈迦、処々に嘆帰(たんき)(阿弥陀仏をほめ、帰依するように勧める)せしめたまへり。すべからくこの(こころ)を知るべしとなり。このゆゑに曇鸞法師の正意、西に帰するがゆゑに、『大経』に()へて奉讃(ぶさん)していはく(『讃阿弥陀仏偈』)、〈安楽の声聞・菩薩衆、人天、智慧ことごとく洞達せり。身相荘厳(しゅ)()なし。ただ他方に順ずるがゆゑに名を(つら)ぬ。(げん)(よう)端正(たんじょう)にして比ぶべきなし。精微妙軀(しょうみみょうく)(不可思議ですぐれた身体)にして人天にあらず。虚無(こむ)の身、無極(むごく)の体なり。このゆゑに平等力(阿弥陀仏を讃えていう)を頂礼したてまつる〉」と。以上

道綽が曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』から引いている一節は、先に第十一願の成就文として出された「かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥洹の道に次し。云々」をもとに詠われたものです。そのことからこの文がここで取り上げられていると思われますが、注目したいと思いますのは、ここで述べられている阿弥陀仏と釈迦仏の関係についてです。道綽は、この二仏は「神力また斉等」であるにもかかわらず、釈迦仏は「おのれが能を申べずして、ことさらにかの長ぜるを顕したまふ」のは、「一切衆生をして斉しく(安楽浄土に)帰せざることなからしめんと欲して」であると述べています。

親鸞が「正信偈」で「如来(釈迦如来)、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」と詠っているのも同じことです。ここに浄土教の特徴がありますが、それで納得して終わることなく、さらに問わなければなりません、なぜ釈迦は「おのれが能を申べず」に、「ただ弥陀の本願海を説く」のかと。ここには浄土教の本質に関わることが潜んでいます。


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現当二益(げんとうにやく) [「『証巻』を読む」その20]

(9)現当二益(げんとうにやく)

ことばの意味としまして涅槃とは煩悩を断じた境地を指しますから、煩悩を断じないまま涅槃を得るというのはあからさまな矛盾と言わなければなりません。そこで曇鸞はその矛盾を避け、「涅槃分を得」としたと思われます。親鸞は信心をえて正定聚の数に入った人を「仏とひとし」と言いますが、それと同じように「涅槃にひとしい」という意味で「涅槃分を得」と言ったのでしょう。実際に涅槃に至るのは「わたしのいのち」が終わった後のことですが、「ほとけのいのち」に遇うことができた人はもう涅槃に至ったにひとしいということです。

ここであらためて現生で正定聚になることと来生に涅槃(滅度)に至ることの関係について考えておきたいと思います。浄土真宗の教学では現生で得る利益を「現益(げんやく)」、来生で得る利益を「当益(とうやく、当来の利益)」と言い、二つの利益を区別しますが、現生で得る利益は問題ないとして、さて来生の利益とはどういうことでしょう。そもそも来生の利益などというものは存在するのでしょうか。存在するとして、どこに存在するのでしょう。

いや、もっとそもそもの話として、未来などというものは存在するのでしょうか。たとえば「明日は存在するか」と尋ねられたらどうでしょう。誰でも「そりゃ、あるだろう。明日がないとしたら大変だ」と答えるに違いありません。さてしかし「では明日はどこにあるのか」と問われたらどうでしょう。「どこと言われても困るが、今日の次の日として、今日が終わるとやってくる」とでも答えるしかありません。しかし、今日が終わってやってくるのは次の今日であって、明日ではありません。やってくるのはどこまでも今日であり、明日が来ることはありません。

明日はある、これは間違いありません。というよりも、われらは「明日はある」という前提のもとで生きています。しかし明日は今日があるのと同じようにあるのではないことも確かです。今日はいま現にありますが、しかし明日はそうではありません。ではどのようにあるのか。明日は「これから来るだろう」という予測のかたちであります。そしてその予測をするのは今日ですから、明日は今日の予測としてあるということになります。

未来は現在における予測としてのみ存在するということが明らかになりました。としますと、来生の利益とは、来生に利益があるだろうと現生において予測することに他ならず、来生の利益とは言うものの、それは実際のところ現生にしかないということです。現益としての正定聚とは別に当益としての涅槃があると言われますが、現益と当益の二つがあるのではありません。ただ現益があるだけです。

これは何を意味するかといいますと、救いは「いま」にしかないということです。「明日救われるということだってあるじゃないか」と言われるかもしれませんが、それは「明日救われるだろう」と「いま」予測しているのであり、そしてそのように予測していることにおいて「いま」もうすでに救われているのです。

(第2回 完)


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本文4 [「『証巻』を読む」その19]

(8)本文4

『論註』からの最後の引用です。

また『論』にいはく、「荘厳(しょうごん)清浄(しょうじょう)功徳(くどく)成就(じょうじゅ)(国土荘厳十七種の第一荘厳)とは、偈に〈(かん)()世界相(せかいそう) 勝過(しょうか)三界(さんがい)(どう)(かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり)〉といへるがゆゑにと。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得れば、三界の繫業(けごう)(迷いの世界につなぎとめる煩悩の業)畢竟(ひっきょう)じて()かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや」と。以上抄要

親鸞は『論註』からの引用の順序をひっくり返して、最後の文として国土荘厳十七種のなかの第一荘厳を引いていますが、これには理由があります。それはこの第一荘厳に国土荘厳のすべて(いや国土荘厳だけでなく、仏荘厳、菩薩荘厳を含めたすべての荘厳)が収まるからです。親鸞がそう見ているというよりも、天親そして曇鸞がそのように説いているのです。すなわちこの「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」という第一荘厳こそ、すべての荘厳の総括にあたるということです。

では「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」とはどういうことかと曇鸞は問い、かの世界では「煩悩を断ぜずして涅槃分を得」ることができるからだと答えます。

ところで、この文で気になりますのは、「煩悩を断ぜずして涅槃を得」と言えばよさそうなところを、どうして「涅槃〈分〉を得」と言っているのだろうということです。大乗仏教の究極の真理として持ち出されるのが、「煩悩即菩提」あるいは「生死即涅槃」ですから、曇鸞としても「涅槃を得」と言えばいいのに、どうしてそうしないのか。因みに親鸞は「正信偈」において、おそらく曇鸞のこのことばを念頭に、「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり(能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃)」と詠っていますが、これは七文字に整える必要からでしょう。


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四海のうちみな兄弟 [「『証巻』を読む」その18]

(7)四海のうちみな兄弟

「四海のうちみな兄弟」や「世々生々の父母兄弟」ということばは、みんな分け隔てない「御同朋、御同行」であるということですが、ひいては一切の有情は切り離しがたくひとつにつながっているということも意味します。念仏を申すものだけが「四海のうちみな兄弟」としてつながっているのではありません、念仏を申そうが申すまいが、生きとし生けるものたちすべてが「世々生々の父母兄弟」としてひとつです。これが本願に遇うことができ、正定聚となったものの前に広がる新しい風光です。

本願に遇うまではただ「わたしのいのち」として生きるしかありませんから、一人ひとりがみなそれぞれ違うばかりでなく、ばらばらに切り離されていましたが、いまや「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」として生きていますから、「わたしのいのち」としてはこれまで同様それぞれでも、「ほとけのいのち」としてはひとつにつながっています。「ほとけのいのち」とはすべての「わたしのいのち」の無尽のつながりを意味しているのです。

「ほとけのいのち」と言いますと、どうしても「わたしのいのち」とは別にどこかに存在するものとしてイメージしてしまいますが、「ほとけのいのち」とは「無量のいのち(アミターユス)」ですから、それがもし「わたしのいのち」とは別にあるとしますと、もう「ほとけのいのち」ではないと言わなければなりません。では「無量のいのち」としての「ほとけのいのち」と「有量のいのち」としての「わたしのいのち」はどのような関係にあるのでしょうか。

これまでしばしば「ほとけのいのち」はあらゆる「わたしのいのち」を包み込む(摂取不捨する)という言い方をしてきましたが、「ほとけのいのち」をすべての「わたしのいのち」をそのなかに包み込む「容器」のようなものとイメージしますと、またしても「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」は別ものとなってしまいます。そうではなく、「ほとけのいのち」とはあらゆる「わたしのいのち」が無尽につながりあっているそのつながりそのものです。


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本文3 [「『証巻』を読む」その17]

(6)本文3

『論註』の第三と第四の文です。

荘厳(しょうごん)眷属(けんぞく)功徳(くどく)成就(じょうじゅ)(国土荘厳十七種の第十三荘厳)とは、偈に、〈如来(にょらい)(じょう)()(しゅ) 正覚(しょうがく)()化生(けしょう)(如来浄華の衆は、正覚の華より化生す)〉といへるがゆゑにと。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生(ざつしょう)の世界には、もしは胎もしは卵もしは湿もしは化、眷属そこばく(多数)なり。苦楽(くらく)万品(まんぽん)なり。雑業(ぞうごう)をもつてのゆゑに。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし(みな如来正覚の仏坐に化生する)。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや」と。

またいはく、「往生を願ふもの、本はすなはち三三の品(上品上生から下品下生まで九種類)なれども、いまは一二の(しゅ)なし。また淄澠(しじょう)(淄水と澠水という二河)の一味なるがごとし。いづくんぞ思議すべきや」と。

第四の文は、第三の文の少し後(十七種国土荘厳の第十六荘厳)に出るものですが、同じ趣旨です。娑婆世界ではひとり一人みな異なり(「三三の品」)、「苦楽万品」ですが、安楽国土では、みな弥陀の正覚の華のなかに生まれますから「四海のうちみな兄弟」であり、それは、淄水と澠水の水は異なっても海に入れば「一味」となるようなものであると説かれます。

この文においても注意が必要なのは、こちらに娑婆世界があり、あちらに安楽国土があって、こちらではひとり一人みな違っていたのに、あちらに往くと一様になる、ということではないということです。くどいようですが、往生とはこちらからあちらに往くことではありません、「いまここ」でこれまでとは異なる新しい生がはじまるということです。そしてそのとき、これまでは「三三の品」であったひとり一人が、「四海のうちみな兄弟」と思えるようになるのです。

この文を読んで頭に浮ぶのは『歎異抄』第5章の「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」という親鸞のことばです。これは「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」という驚くべきことばにつづくもので、その理由として言っているのですが、そのとき親鸞は『論註』のこのことばを思い浮かべていたのではないでしょうか。


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