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「サウイフモノ二 ワタシハ ナリタイ」 [「『証巻』を読む」その57]

(6)サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」

これが還相の菩薩のはたらきであるとしますと、ますますもってとても人間のなしうる業とは思えず、これはいのち終わりめでたく仏となってからのことと思わざるをえません。かくして還相来生説が登場してくるのですが、ここでよくよく考えなければならないのは、もし還相の菩薩が文字通りにこのはたらきをなしうるとしますと、もうすでに世界中の衆生が「菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生」じていなければならないということです。一人の例外もなく救われていなければなりませんが、現実はどうであるかは言うまでもありません。では「身本処を動ぜずして、よくあまねく十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す」という文は何を言っているのでしょう。答えは一つ、還相の菩薩は「身本処を動ぜずして、よくあまねく十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す」ることを「願う」ということです。

そもそもこの願いは法蔵の願い、すなわち本願ですから、還相の菩薩とは本願をわが願いとする人のことです。頭に浮ぶのはまた宮沢賢治です。あまりにも有名な詩「雨ニモ負ケズ」にこうあります、東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」と。これはまさに還相の菩薩の姿そのものですが、賢治はこの詩をこう閉じます、「サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」と。還相の菩薩も「身本処を動ぜずして、よくあまねく十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す」るサウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」と願うのです。

そしてそんな願いをもつことができるのも、それに先立って法蔵菩薩が「身本処を動ぜずして、よくあまねく十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化せん」と願ってくださっているからです。その本願に遇うことができたからこそ、自分もまたその願いをわが願いとして生きようと思えるのです。


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第6回、本文3 [「『証巻』を読む」その56]

(5)第6回、本文3

これから菩薩の行の特徴が四つ説かれていきます。まずはその一。

〈なにものをか四つとする。一つには、一仏土において身、動揺せずして十方に遍す、種々に応化(おうげ)して実のごとく修行してつねに仏事をなす(衆生を教化する)。偈に《安楽国は清浄にして、つねに無垢(むく)(りん)(煩悩の汚れのない仏の教法を車輪にたとえる)を転ず、化仏・菩薩は、日の(しゅ)()(須弥山)に住持するがごとし(須弥山にたもたれているようである)といへるがゆゑに。もろもろの衆生の()(でい)()(泥の中に咲く蓮の華)を開くがゆゑに(浄土論)とのたまへり。八地以上の菩薩は、つねに三昧(ざんまい)にありて、三昧力をもつて身本処(ほんじょ)(もとのところ)を動ぜずして、よくあまねく十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。無垢輪は仏地(ぶつじ)(仏の境界)の功徳なり。仏地の功徳は(じっ)()(煩悩のなごり)・煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のためにつねにこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもつて、一切を開導して暫時(ざんじ)休息(くそく)なけん。ゆゑに常転といふ。法身は日のごとくして、応化身の光もろもろの世界に遍するなり。日といはばいまだもつて不動を明かすに足らざれば(日と言うだけでは不動ということをあらわすのに十分ではないから)、また如須弥住持(須弥に住持するが如し)といふなり。淤泥華とは『経』(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地(ろくじ)には蓮華を生ぜず。卑湿(ひしゅう)淤泥にいまし蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を(しょう)(りゅう)して、つねに絶えざらしむと。

菩薩の還相のはたらきの特徴の第一として「身本処を動ぜずして、よくあまねく十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す」ることが上げられます。第二十二願に、還相の菩薩は「衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被(き)て、徳本を積累(しゃくるい)し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめん」とありましたが、そのような自在無碍なはたらきを身は浄土にありながらしてしまうというのです。


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不行にして行ずる [「『証巻』を読む」その55]

(4)不行にして行ずる

「わがはからいがない」とは、何かをしようという思いがないということではありません。何かをする時、それをしようという思いは「わたし」の中にかならずあります(意識があるというのはそういうことで、したがって無意識のうちにすることはその限りではありません)。もしそれがないとしますと、その人はもう木偶の坊か、あるいはロボットであると言わなければなりません。さてしかし、何かをしようという思いを「わたし」が起こしたのかどうか、これが問題です。

国分功一郎氏の『中動態の世界』から教えられたことですが、古いインド=ヨーロッパ語族の動詞の態(voice)は「能動態と中動態」という対であったそうです。われらは「能動態と受動態」の対しか知りませんから、「する」か「される」かとしか考えられませんが、これはことばの歴史から言うと新しいことで(紀元前4世紀ごろのことだそうです)、それ以前は能動態に対するものとしてあったのは中動態だったというのです。この違いをぼく流に平たく言いますと、ある行いを「わたし」〈が〉起こすのが能動態で、それが「わたし」〈に〉起こるのが中動態ということです。

これをつかって言いますと、「わがはらかい」で何かをするというのは、何かをしようという思いを「わたし」〈が〉起こしている能動態であるのに対して、「わがはからいがない」というのは、何かをしようという思いが「わたし」〈に〉起っているのは確かですが、それを「わたし」〈が〉起こしているのではないという中動態です。さて還相のはたらき、すなわち「一切の衆生を教化して、ともに仏道にむかへしめん」とする思いは、紛れもなく「わたし」〈に〉起っていますが、しかし「わたし」〈が〉起こしているのではありません。

「一切の衆生を教化して、ともに仏道にむかへしめん」という思いを「わたし」〈に〉起こしているのは弥陀の本願力です。ここで「不行にして行ずる」と言われているのはこのことです。


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第6回、本文2 [「『証巻』を読む」その54]

(3)第6回、本文2

さていよいよこれから菩薩の還相のはたらきが説かれます。

菩薩を観ぜば、〈いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行(しょうしゅぎょう)功徳(くどく)成就したまへることありと、知るべし(浄土論)と。真如(しんにょ)はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずればすなはちこれ不行なり。不行にして行ずるを、如実(にょじつ)修行(しゅぎょう)真如にかなった正しい修行と名づく。体はただ一如にして義をして分ちて四つとす。このゆゑに四行、一をもつてまさしくこれを()意味の上で四つに分けるが、四つの行を一つにまとめて如実修行という

これは菩薩の荘厳功徳についての総論にあたるところです。天親が菩薩は四種の正しい行を成就すると言っているのを、曇鸞が正しい行とは真如にかなった行であり、それは行であって不行であり、不行であってこそ如実修行であると注釈しています。そして行に四つあると言っても、それが不行の行であるという点においては一つであると言います。この段を読んですぐ頭に浮ぶのは『歎異抄』の第八章です。「念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行・非善なりと云々」とあります。

これは念仏について言っていますが、還相のはたらきについてもまったく同じように言うことができます、「わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ」と、また「ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行・非善なり」と。さてしかし「わがはからひにて行ずるにあらず」とか「自力をはなれたる」とはどういうことでしょうか。親鸞は関東の弟子への手紙の中で法然の「義なきをもつて義とす」ということばをしばしば持ち出していますが(ここに浄土の教えの根幹があるからに他なりません)、この「義なき」こと、すなわち「わがはからいがない」、「自力をはなれている」とはどういうことを意味するのでしょう。


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本願力のはたらき [「『証巻』を読む」その53]

(2)本願力のはたらき

ご覧の通り、ここでは阿弥陀仏を讃える八句(仏八種荘厳)をまとめて、それらがどのようなつながりになっているのかを整理しています。ここは仏の荘厳を説く最後のところに当たり、このあと菩薩の荘厳に移っていくつなぎをしている部分です。いまは菩薩の還相のはたらきを説いているのですから、この部分は省略してもいいように思われますが、すぐ前に引用された部分(先回の最後の文)が阿弥陀仏のはたらき(不虚作住持功徳)を説くところに当たりますので、その関係でここも省かずに引いたのだろうと思われます。いや、もっと積極的に解釈して、菩薩の還相のはたらきはみな阿弥陀仏の力によるものであることを示唆していると考えるべきでしょう。

先回の最後に「七地沈空の難」が出てきました。自力で菩薩道を歩む行者は七地に至って大きな試練にあうということで、「一切は空である」という大覚をえますと、「もうこれでよし」と歩みを止めてしまい、衆生教化という還相のはたらきを捨ててしまう危険があるということでした。ところが弥陀の本願に遇うことにより往生できた行者はそんなことはなく、初地の菩薩も「畢竟じて」上地の菩薩と等しく、一切衆生を教化して仏道に向かえしむることができると言われていました。それはひとえに本願他力のはたらきによるのであり、本願他力により往生できたように、本願力回向により還相のはたらきをすることができるのです。

往相だけでなく、還相もまた本願力のはたらきであるということをあらためて考えておきましょう。還相とは「一切衆生を教化して、ともに仏道にむかへしむる」ことと言われますが、しかしわれらにできるのは「一切の衆生を教化して、ともに仏道にむかへしめん」と願うことであり、自分が本願に遇うことができたように、一切の衆生がともに本願に遇えるよう願い、どれほどささやかでも自分にできることをするだけです。そしてわれらにそんなはたらきができるのは、それに先立って弥陀が「一切の衆生を教化して、ともに仏道にむかへしむる」よう願ってくださっているからであるということ、これが還相もまた本願力のはたらきであるという意味です。


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第6回、本文1 [「『証巻』を読む」その52]

第6回 還相の菩薩

(1)  第6回、本文1

あらためて『浄土論』の構成を見ておきますと、大きく、弥陀の浄土を讃嘆する「願生偈」とそれを解説する散文の「長行(じょうごう)」の二部に分かれます。そして「長行」において、浄土往生のための五つの行(五念門)として礼拝・讃嘆・作願・観察・回向が上げられ、それぞれが説明されていきます。その中心を占めるのが観察門で、それがさらに仏国土の荘厳(十七種)・仏の荘厳(八種)・菩薩の荘厳(四種)に分かれて説かれます(荘厳とは「うるわしさ」という意味です)。終わりに五念門のそれぞれに応じて五功徳門(五つの功徳)が説かれて閉じられます。先回の最後の文が仏荘厳の第八荘厳「不虚作住持功徳成就」で、曇鸞が『論註』でそれを詳しく注釈していたのでした。

それにつづくのが次の文です。

〈略して八句(仏の荘厳八種)を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまへるを()(げん)したまへるなりと、知るべし(浄土論)と。これはいかんが次第なるとならば、(さき)の十七句は、これ荘厳国土の功徳成就なり。すでに国土の相を知んぬ、国土の主を知るべし。このゆゑに次に仏荘厳功徳を観ず。かの仏もし荘厳をなして、いづれの処にしてか坐すると。このゆゑにまづ座を観ずべし。すでに座を知んぬ、すでによろしく座主を知るべし。このゆゑに次に仏の身業を荘厳したまへるを観ず。すでに身業を知んぬ、いかなる声名(しょうみょう)(名号)かましますと知るべし。このゆゑに次に仏の口業を荘厳したまへるを観ず。すでに名聞(名号があらゆるところに聞こえること)を知んぬ、よろしく得名のゆゑを知るべし。このゆゑに次に仏の心業を荘厳したまへるを観ず。すでに三業(身口意の三業)具足したまへるを知んぬ、人天の大師となって化を受くるに()えたるひとは、これたれぞと知るべし。このゆゑに次に大衆(だいしゅ)の功徳を観ず。すでに大衆無量の功徳いますことを知んぬ、よろしく上首はたれぞと知るべし。このゆゑに次に上首を観ず。上首はこれ仏なり。すでに上首を知んぬ、おそらくは長幼に同じことを(上首と大衆がただ長幼の違いと思われるおそれがある)。このゆゑに次に主を観ず。すでにこの主を知んぬ、主いかなる増上(すぐれたはたらき)かましますと。このゆゑに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。


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横超 [「『証巻』を読む」その51]

(10)横超

第二十二願の意味についてはすでに詳しく検討しましたので(第4回、6)、ここではおきますが、曇鸞が注目していますのは、最後の「常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん」という文言です。これは、浄土に往生できたものは、菩薩としての普通のありよう(常倫)を超えて、初地から十地までを一気に跳び越え(諸地の行現前)、衆生教化の還相のはたらき(普賢の徳)をすることができるということです。曇鸞はそれを説明するのに好堅という樹は一日に百丈伸びるということや、釈迦は一度の説法で悟りを開かせたり、夜明けから朝食までの間に無生忍に至らせたりすることができたことを持ち出します。そんなことを聞いても人は信じようとしないが、それは「非常の言は、常人の耳に入ら」ないということだと言います。

五十二階位の菩薩道というのは自力の発想です。ある目標をめざして一歩一歩着実に歩んでいく。そうすることではるか彼方と思われていたことも、いつしか成し遂げることができるということです。これが常倫のありようで、そこからすれば弥陀の本願力に乗じて諸地の行を一気に跳び越えるなどというのは「常人の耳に入ら」ないのは当然でしょう。そんなことがあるはずがないと思ってしまう。親鸞はこの「常倫に超出」することを「横超」と表現します。『大経』に「安養国に往生して、横に五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)を截(き)り、悪趣自然に閉じん」とありますが、それを注釈してこう言います、「横はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるがゆゑに行者のはからひにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生(胎生・卵生・湿生・化生)をはなるるを横といふ、他力と申すなり。これを横超といふなり」(『尊号真像銘文』)と。

竪に一歩一歩進むのが自力ですが、横に一気に跳び越えるのが他力ということです。横に跳び越えるといっても自分のはからいでそうするのではありません(それでは自力になります)、あるときふと、もうすでに跳び越えていることに気づくのです。横超が「自分に」起っているのは確かですが、「自分が」起こしたのではありません、如来の本願力が起こしているのです。

(第5回 完)


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第5回、本文5 [「『証巻』を読む」その50]

(9)第5回、本文5

上の問いに対する回答はまだつづきます。そしてここで曇鸞は第二十二願を持ち出し、初地の菩薩も「畢竟じて」上地の菩薩と等しいことを確認します。

また次に『無量寿経』のなかに、阿弥陀如来の本願にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆 わが国に来生して、究竟(くきょう)してかならず一生補処(いっしょうふしょ)に至らん。その本願の自在の所化(しょけ)(教化するところ)、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を()て、徳本を積累(しゃくるい)し、一切を()(だつ)せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習(しゅじゅう)せん。もししからずは、正覚を取らじ〉(以上が第22願)と。この『経』を案じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来、閻浮提(えんぶだい)(娑婆世界)にして一つの応化(おうけ)(どう)(方便の道)ならくのみと。他方の浄土は、なんぞかならずしもかくのごとくせん。五種の不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。もし菩薩かならず一地より一地に至りて、超越(ちょうおつ)の理なしといはば、いまだあへて詳らかならざるなり(仏法の不思議をよく知らないのである)。たとへば樹あり、名づけて好堅(こうけん)といふ。この樹、地より生じて百歳ならん。いましつぶさに一日に(たけ)高くなること百丈(1丈は10尺、約3m)なるがごとし。日々にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに(しゅ)(しょう)(高い松の木)に類せんや。松の生長(しょうちょう)するを見るに、日に寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、なんぞよく即日を疑はざらん(どうして一日に百丈のびるということを疑わないことがあろうか)人ありて、釈迦如来、羅漢(らかん)を一聴に証し(一度の説法で阿羅漢の悟りをひらかせる)、無生を終朝(夜明けから朝食までの間)に制すとのたまへるを聞きて、これ接誘(しょうゆう)(誘引する)の言にして(しょう)(じつ)(実際)の説にあらずと(おも)へり。この論事を聞きて、またまさに信ぜざるべし。それ非常の言(普通でない言葉)は、常人の耳に入らず。これをしからずと謂へり。またそれ(よろ)しかるべきなり(それもまた当然のことである)と。


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第5回、本文4 [「『証巻』を読む」その49]

(8)第5回、本文4

さてしかし、「阿弥陀仏を見る時、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し」ということに、さらなる疑問が出されます。

問うていはく、もしすなはち(ただちに)等しからずは、またなんぞ菩薩といふことを得ん(どうして上地の菩薩と等しいというのか)。ただ初地に登れば、もつてやうやく増進して、自然にまさに仏と等しかるべし。なんぞ仮に上地の菩薩と等しというやと。

答へていはく、菩薩、七地のなかにして大寂滅を得れば(一切は空であると覚れば)、上に諸仏の求むべきを見ず(上に向かって仏の覚りを求めようとせず)、下に衆生の度すべきを見ず(下に向かって衆生を済度しようとはしない)。仏道を捨てて実際(涅槃)を証せんと欲す。その時に、もし十方諸仏の神力(じんりき)加勧(かかん)を得ずは、すなはち滅度して二乗(声聞乗と独覚乗、小乗)と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなはちこの難なけん。このゆゑにすべからく畢竟平等といふべし。

この疑問の趣旨は明らかでしょう。「畢竟じて(ついにはかならず)」と言うのなら、初地の菩薩は「畢竟じて」仏になるのだから(それが正定聚不退ということです)、どうしてわざわざ「畢竟じて」上地になるなどと言う必要があるのか、ということです。それに答えて曇鸞は「七地沈空の難」を持ち出します。七地に至った菩薩は大きな試練にあうというのです。それは七地に至り「すべては空である」という大覚を得ると、もうこれでよしと衆生済度のはたらきを止めて涅槃に入ってしまう危険があるということです。これでは自分の救いで満足してしまう小乗の立場で終わってしまいますが、「菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつ」れば、こんな試練にあうことなく自利利他満足の大乗の仏道を歩むことができるというのです。これが初地の菩薩も弥陀の本願力によって「畢竟じて」上地の菩薩と等しくなると言われる理由だというのが曇鸞の答えです。

菩薩道を自力で歩む行者は七地沈空の難がありますが、弥陀の本願力に乗じることができれば、そんな難にあうことはなく、ついには自在無碍に「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」ことができるということです。


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畢竟じて [「『証巻』を読む」その48]

(7)畢竟じて

これは不退転や正定聚の場合と事情は同じです。初地に至ると不退転となり正定聚の数に入ると言われますが、不退転は「このさき仏となることから退転することがない」という意味であり、正定聚は「かならず仏となるべき身となる」という意味でした。それと同じように、阿弥陀仏を見ることができれば(これは初地に至るのと同じことです)、「畢竟じて(ついにはかならず)」上地の菩薩と等しくなるということです。不退転や正定聚において、実際に仏となるのは「これから」のことですが、かならず仏になることに気づいたのは本願に遇った「いま」であるように、実際に上地の菩薩になるのは「これから」のことですが、かならず上地の菩薩になることに気づいたのは阿弥陀仏を見たてまつることができた「いま」です。

そして大事なのは「これから」ではなく「いま」です。本願に遇うことができた「いま」がすべてであり、「これから」はそれにおのずから伴うにすぎません。

先に、還相とは「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」ことだが、本願に遇うことができたとはいえ、ただちにそんなはたらきができるはずはなく、それを「わが願い」として持つことができるだけだと述べました(3)。実際、自在無碍に「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」ことができるのは上地の菩薩であり、それは「これから」のことでしょう。しかし本願に遇うことができた「いま」、本願を「わが願い」とすることができ(「本願の人」となることができ)、そして「わが願い」はかならず実現すると気づいたのです。なぜなら、それは如来の願いであり、われらが願うより前にすでに願われているのですから。

「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」のは「これから」のことであっても、それを「わが願い」とすることができるのは「いま」であり、それを「わが願い」としたことは、もうそれを成就したことに「等しい」のです。これが「阿弥陀仏を見る時、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し」ということです。


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