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4月10日(日) [矛盾について(その251)]

 仏教(とりわけ浄土真宗)には妙好人と呼ばれる人がいて、しばしばお坊さんより大事な役割を果たしてきました。名もない庶民で字も読めない人たちが大半ですが、確かな信心に生きていることが日々の生き方の中に現われているような人です。その一人に因幡の源左という人がいます(幕末に生まれ、昭和のはじめまで長命を保ちました)。彼が仏の声を聞いた経緯には興味深いものがあります。
 「城谷(ジョウダン)(地名)に朝草刈にいったとき“ふいつと”聞へてのう。牛(デン)奴(メ)に草をみんな負せりや牛(デン)もえらからあけ思つて、おらが負うとつたらおらがえらあになつて、牛(デン)やえらからあけど負うてごせいやちつて負したららくになつてのう」、そのとき「源左たすくる(源左たすけるぞ)」の声が聞こえたと言うのです。朝草刈に行き牛の背に草の束を負わせるのですが、全部負わせるのはえらかろうと自分も一把背負って帰る途中、自分がえらくなって、悪いがこの草束もたのむと牛に背負わせ「やれやれ、らくになった」と思った瞬間、どこかから「源左たすくる」の声が「ふいつと」聞こえた。
 ひょっとしたら、自分が背負っていた草束を牛の背に載せたとき、牛が「モウ~」と鳴き、それが「源左たすくる」と聞こえたのかもしれませんが、源左にとってそれは紛れもなく仏の声でした。それは全く思いがけないことで、まさに「ふいつと」聞こえてきたのですが、辺りを見回しても牛しかいません。とすれば源左としますとこれは仏の声としか考えられません。これが宗教の「物語」です。源左の生きていた風土ではこの「物語」が広く根付いていて、源左の話を聞いた人たちはみな心から頷いたことでしょう。

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