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10月27日(木) [矛盾について(その450)]

 中国からこんなニュースが入ってきました。車にはねられ道端で苦しんでいた小さな女の子の傍を十何人もの人がそのまま通り過ぎて行ったと。その様子が街頭の監視カメラに写っていたそうです。解説によりますと、このところそのようなケースで助けようとした人が逆に訴えられることが重なり、警戒して助けの手を出さなくなったのではないかと言うのですが、どんなものでしょう。因みに、その哀れな女の子は結局母親の手で病院に運ばれたのですが、手当ての甲斐もなく亡くなったそうです。
 その時そのまま通り過ぎた人たちは折にふれて「あのときどうして助けてあげなかったか」と思うのではないでしょうか、そうしておけば、いまこうして悔やむことなどないのに、と。こんなふうに、ことが終ってしまってから「ああしておけばよかった、こうしておけばよかった」とくよくよするのが、ぼくら凡夫の情けなさです。でも、「ああしておけばよかった、こうしておけばよかった」と煩い悩むことにおいて、見て見ぬ振りをして通り過ぎたことが許されているのではないでしょうか。次に同じようなことがあったら、今度こそ助けてあげようと思っているに違いないからです。
 善きサマリア人は素晴らしいと思います。何の迷いもなく介抱して上げる姿には神々しささえあります。ぼくもできれば見習いたいと思う。でも、その場になったら見て見ぬ振りをしてしまうのではないかという不安もあります。実際どんな振る舞いをするかはそのときにならないと分かりません。そのときどきに見苦しくない振る舞いをしたいものだと願いながら、でも善きサマリア人でなければならないと肩肘を張るのではなく、「そのときの気持ちに従うしかないな」と思います。われながらいいかげんな気もしますが、これがぼくが金子氏のことばから学んだことです。

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