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5月1日(水) [はじめての親鸞(その125)]

 ぼくらは普段「あんなひどいヤツが云々」の世界に生きています。相対的な善悪の世界に住んでいるのです。ですから自分のことを「こんなひどいヤツ」とは思いません。でも、「あんなひどいヤツ」の顔を思い浮かべながら、「まてよ、オレも似たようなものじゃないか」と思い直すことがあります。
 これは自分でそう思うというより、どこかから「おまえも同じじゃないか」という声が聞こえて、「そうか、オレも」と気づかされたという感じです。かくして煩悩の海に浮き沈みしている自分を見つめることになります。ところがその時にはもうひとつの気づきがすでに起こっているのです。今浮き沈みしているこの煩悩の海がそのまま本願の海だという気づきです。
 煩悩の海に浮き沈みしていることにおいて、みんな同じです。そして本願の海に帰入することにおいても、みんな同じ。機の深信とは、みんな煩悩の海に浮き沈みしていることに気づくことで、法の深信とは、みんな本願の海に受け入れられることに気づくことです。機の深信と法の深信とが別ものではないということは、煩悩の海を本願の海とが別ものではないということに他なりません。
 煩悩の海は、ここは煩悩の海だと気づいたときには、もうすでに本願の海に他ならないのです。ここは相対の世界だと気づくことで、もう相対性から抜け出ています。だからと言ってそれとは別の絶対の世界に移る訳ではありません。これまでと同じように相対の世界にいるのですが、もはや相対性にとらわれることがなくなるのです。

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