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4月30日(火) [はじめての親鸞(その124)]

 善悪の尺度を持って人を測る限り、ぼくは「比較的に」善人です。上には上がいますが、下には下がいるのです。いや、自分は一番下だと思っている人がいるかもしれません。でも、その人にとっては、もう善悪の尺度そのものが意味を失っているはずです。その人はもう善悪の序列そのものから降りています。
 これでは納得してもらえないかもしれませんので、今度は賢さの尺度を考えてみます。学校では成績の序列がつけられます。序列というのは情け容赦がありません、トップからビリまでその位置がはっきりと決まります。不幸にしてビリに位置づけられた人は「ああ、オレはビリだ」と落ち込むでしょう。
 でも心のどこかでこう思っています、「この学校ではビリだが、他の学校も含めれば、もっと下のヤツがいるはずだ」と。ある範囲でビリでも、その範囲を広げて、自分よりもさらに下を探すに違いありません、その人が成績の尺度の中で生きている限り。もし本気で「オレほど馬鹿なヤツはいない」と思っている人がいるとしますと、その人はすでに序列そのものから降りています。
 どんな序列であれ、その中で生きていこうとする限り「少しでも他人より上に」という思いを持っています。そして「少しでも他人より上に」という思いがありますと、自分が文字通りのビリであることに安閑としていられません。何としても自分より下の人間を作り出さざるを得ません。自分より下の人間がいると思うことで、ようやく平静を保つことができるのです。

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