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6月10日(月) [はじめての親鸞(その164)]

 死後の世界について断定的に語らないのは釈迦も同じです。マールンクヤという青年が釈迦にいろいろ形而上学的な問いをぶつけたそうです。この世界に時間的な始まりはあるかとか、この世界は空間的に果てがあるかとか、霊魂はあるか、そしてあの世はあるかといった問いです。釈迦はそうした問いにはあえて答えなかったそうです。これを「無記」と言います。回答しないということです。これはすごく大事なことではないでしょうか。世間には霊魂がどうの、あの世がどうのとしたり顔で語る人がいますが、釈迦はそんなことには近づかないのです。  
 しかしマールンクヤは諦めずにしつこく質問します。それに対して釈迦は最後にこう言ったそうです。「ある人が毒矢に射られたとしよう。周りの人は早くその矢を抜こうとするだろう。ところが本人が私を射たものが何ものであるか分かるまでは決して矢を抜いてはならないと言い張ったらどうだろう。毒が回って死んでしまうだろう。それと同じことだ」と。大事なのはあの世があるかどうかではなく、今この世をどう生きるかということだと。
 さてしかし、死後の世界について断定的に言わずに、どのようにして「生きるということ」、「死ぬということ」について森岡氏が求めるような答えを出すことができるのでしょうか。
 「来生の往生」から「今生の往生」へと目を転じるのです。先ほど見ましたように「今生の悟り」は難しいから「来生の往生」に希望を託すというのがこれまでの浄土の教えでしたが、その「来生」への眼差しをもう一度「今生」へと向けかえるのです。さすがに「今生の悟り」に先祖がえりするわけではありませんが、「今生の往生」という一見矛盾したスタンスを取るのです。これが親鸞です。

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