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7月24日(水) [はじめての親鸞(その208)]

 ぼくらは誰しも自力で明日を切り拓かなければなりません。ただその時に、今日に自足しているかどうか。
 「明日を思い煩う」ということは、今日は明日のためにあるということです。今日は今日として意味があるのではなく、明日にとってはじめて意味があります。明日が今日になっても、その今日はまたその明日にとって意味があり、かくしていつまでたっても意味は明日まで取っておかれます。目の前に人参をぶら下げられて走らされる哀れな馬のようなものです。
 一方、「今日に自足する」ということは、今日は今日のためにあるということです。今日を明日のために犠牲にすることはありません。明日を思い煩うことなく今日という日を存分に生きる。それは明日を疎かにする刹那主義だと言われるかもしれませんが、実際は逆です。明日のことで頭が一杯になるのは、明日が不安で仕方がないからです。ですから考えてもどうにもならないことを、ああだろうか、こうだろうかと思い煩うのです。それに対して今日に充足していますと、明日を冷静に見つめることができます。明日を思い煩うことと、明日を冷静に考えることは全く別のことです。
 この頃同級生の訃報を聞くことが多くなり、もうそんな年なんだとしみじみ思うようになりました。そう言えば、少し前に町内ゲートボール大会の案内が来まして、これには驚きました。ゲートボールというのは、はるか年上の人たちのことと思っていましたので、「えー、このオレがゲートボール?」と何とも複雑な思いでした。
 で、死ぬということを自分のこととして考えることが多くなりました。

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