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2013年8月1日(木) [はじめての『教行信証』(その4)]

 「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずる」だけなら、そして「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」と言うのなら、どうしてこの『教行信証』を書いたのか。
 そんな思いをよそに、世間では『教行信証』こそ親鸞畢生の主著で、浄土真宗の根本聖典であるとされます。『歎異抄』や『末燈鈔』などを有難がって、『教行信証』をきちんと読んでいないようでは本当に親鸞のことが分かったとは言えないと評されます。それももっともなことだと、これまで何度も読もうとしてきたのですが、このよそよそしい気持ちはぬぐえないままでした。
 何年か前のことです、まっさらな気持ちになってもう一度『教行信証』を読んでみようと思いました。そしてこれまで心に引っかかってきた疑問、親鸞はどうして『教行信証』を書く必要があったのかという問いに自分なりの答えを出してみようと思ったのです。そうして読み進めていくうちに、ふとあることに思い当たりました。
 そうか、これまではこの書物を普通の哲学書を読むように読もうとしていたのではないか、と。この書物を読むことで、例えば「阿弥陀仏による救いとは一体何だろう」といった疑問を晴らそうとしていたのだ、と。そういう姿勢でこの書物に向かい合おうとしてきたから躓いてしまったようです。

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