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無我ということ [『末燈鈔』を読む(その99)]

(4)無我ということ

 手紙からそれてしまいましたが、それついでに釈迦の「無我」についても考えておきましょう。これも何とも座りが悪い。
 といいますのも、「わたし」がいるというのはあまりにも当たり前のことですから、「わたし」はいないなどと言われたら、どうしていいか分からなくなります。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言うのも、「わたし」がいることほど確かなことはないということです。「わたし」はいないのではないかと思っても、そう思った瞬間に、そう思っている「わたし」がいるのですから。
 釈迦が「無我(わたしはいない)」と言うときの「わたし」とは、持続する「わたし」、昨日の「わたし」と今日の「わたし」は同じ「わたし」というときの「わたし」のことです。当時のインドで、このように同一のものとして持続する「わたし」が「アートマン」と呼ばれていましたが、釈迦はそんな「わたし」はいないと説いたのです。これはしかしどうにも座りが悪い。
 昨日の「わたし」と今日の「わたし」は同じ「わたし」ではないとしますと、実に困ったことになります。昨日の「わたし」が、「あす必ず返すから」と約束して借金をしたとしても、今日の「わたし」はそれを返す必要はありません。昨日の「わたし」と今日の「わたし」は同じではないのですから。これではもう約束ということが一切成り立たなくなります。
 世の中は、同一のものとして持続する「わたし」がいるという前提の上に成り立っています。それを否定するとすべてがガラガラと崩れてしまう。釈迦はそんな無茶なことを言ったのでしょうか。いえ、釈迦はまさに世の中はそのような前提の上になりたっていると説いたのです。ぼくらは同一のものとして持続する「わたし」がいる「かのように」生きているのであると。そうである「かのように」生きているだけなのに、実際にそうであると思い込むところに我執が生じるのだと言うのです。これが釈迦の無我です。


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