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回心(えしん)とは [『唯信鈔文意』を読む(その79)]

(3)回心(えしん)とは
 
 「但使回心多念仏(たんしえしんたねんぶつ) 能令瓦礫変成金(のうりょうがりゃくへんじょうこん)」の二句の中に使役をあらわす語が二つも出てきます。「使」と「令」です。まずは「ただ回心して多く念仏せしむれば」ですが、回心はわれらが「する」のではなく弥陀が「せしむる」のです。われらから言いますと「回心せしめられる」。この「回心せしめられる」という事態は何を意味するのか、じっくり味わいたいと思います。
 そもそも回心とは何か。それは「自力の心をひるがへしすつるをいふ」と親鸞は言います。ですから、自力のこころから転じて他力に帰すことと一応は言えるでしょうが、さてしかしそれはどういうことなのかと考えだしますと、自力と他力の迷路に入り込んでしまいます。
 いや別に難しくも何ともない、自力は「自分の力で」ということで、他力は「如来の力で」ということだから、回心とは、これまでは「自分の力で」救いを得ようとしていたのを、「如来の力で」救っていただこうと思うようになることだと言われるかもしれません。
 しかし、これまで何度も述べてきましたように、「自力の心をひるがへ」すのも、その心を「すつる」のも自力です。そもそも、どんなことであれ、何かを「する」のは自力です。そのとき、どれだけ他人の力を借りるとしても、何かを「する」のは自分であるということです。
 したがって、自力の心を翻すのも「する」ことである以上、自力です。「自力ではダメだ、他力でなければ」と思うのが回心ではないということです。それは依然として自力の中でもがいているにすぎません。だからこそ「回心する」ではなく、「回心せしめられる」としか言えないのです。

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