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遇うということ [『一念多念文意』を読む(その139)]

(2)遇うということ

 親鸞は『浄土論』の「仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」という文がよほど気に入っていたと思われます。いろいろなところで引いているのですが、ここでもまた、『無量寿経』から「如来、世に興出するゆゑは、群萠を拯ひ恵むに真実の利をもってせんと欲してなり」を引いたあと、続いてこの文を出しています。ここに他力思想の真髄が凝縮されているからに違いありません。なかでも「遇う」(親鸞は「もうあふ」と読んでいます)という一語が何とも味わい深い。
 これまで何度も言ってきましたように、「遇う」は「会う」と違い、「思いがけなくあう」ということです。
 誰かに思いもかけず遇うとき、その相手をすでに知っている場合と、未知の場合があります(因みに「会う」ときは相手を知っています。まだ会ったことがなくても、多少なりともどんな人であるかを知らなければ「会う」ことはできません)。知っている人と「遇う」というのは、たとえば旧友と道でばったり遇い、「やあ、奇遇だね、どうしてる?」と声をかけあうような場合です。これは偶然の出会いで、何の問題もありません。
 不思議なのはまったく未知の人と「遇う」ということです。
 顔も名前も何も知らないのに、遇ってひと言、ふた言かわし、その仕草を何気なく見るだけで、「あゝ、この人だ、この人を待っていたのだ」と思う。そう、恋に落ちた瞬間です。これは不思議な経験です。世の中には無数の人がいるのに、そして毎日おおぜいの未知の人とすれ違っているのに、どうしてこの人にだけ「遇った」と思うのでしょう。この不思議さは何とも言いようがありませんから、「前世の縁」とか「運命の赤い糸」などという言い回しが生まれてきたのでしょう。

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