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本願に遇う [『一念多念文意』を読む(その140)]

(3)本願に遇う

 「前世の縁」とか「運命の赤い糸」と言うときの「縁」や「糸」は見えないつながりをあらわしています。未知の人でありながら、実はつながっているということです。あるいは、つながっているにもかかわらず、いままでそれに気づいていなかったということ。だからこそ、「あゝ、この人だ」と思えるのです。
 その意味では旧友に道でばったり出会い、「何だ、きみか」というのと同じです。ただ、旧友の場合はつながっていることを知っていますが、この場合は、つながっていることにまったく気づいていなかった。いまはじめてそのことに気づいた。
 このように、すでにつながり(縁)があったからこそ、「遇う」ことができたのは間違いありませんが、でも同時に、「遇う」ことができたからこそ、つながりがはじめて存在するようになったとも言えます。もし「遇う」ことがなければ、つながりなどどこにも存在しません。
 相手の人(Aさんとします)と見えない糸でつながっていたから、Aさんに「遇う」ことができたのに違いありませんが、しかし、もしAさんに「遇う」ことがなければ、Aさんは日々すれ違っている縁なき人のひとりにすぎません。
 さてここで「遇う」のは本願です。この場合、本願は既知のものでしょうか、それとも未知のものでしょうか。懐かしい旧友に遇うようなものでしょうか、それとも前世の縁で結ばれた人に遇うようなものでしょうか。
 そもそも本願に遇うとはどういうことかに戻って考えてみましょう。
 またあの因幡の源左に登場してもらいます。ある朝、牛の背に刈った草束を乗せて戻る途中、自分が背負っていた草束の重みに苦しくなり、それを牛に預けた源左に、突然「源左たすくる」の声が聞こえたのでした。これが本願に遇うということです。

タグ:親鸞を読む
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