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真実信心をまもるなり [『浄土和讃』を読む(その187)]

(20)真実信心をまもるなり

 次の和讃は弥陀の化仏をうたいます。

 「無碍光仏のひかりには 無数(むしゅ)の阿弥陀ましまして 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり」(第109首)。
 「無碍光仏のひかりには、無数の化仏ましまして、その化仏みなそれぞれに、信心のひとまもるなり」。

 これまでは「念仏のひとをまもる」と言われてきましたが、ここにきてより直截に「真実信心をまもる」と言われます。考えてみますと、南無阿弥陀仏は「念仏のひとをまもる」とは言うものの、病気にならないようになるわけではありませんし、災害に遭わないようになるわけでもありません。しかし病気になろうが、災害に遭おうが、その人の信心をまもってくれるのです。そして信心をまもることが、その人をまもることです。なぜなら信心さえあれば、どんな境遇におかれても、それに押しつぶされることなく人生を肯定して生きることができるからです。
 しかし、少し前のところで言いましたように、順境にいるときは、世界が微笑みかけてくれているように思えますが、ちょっと逆境におちいりますと、つい呪詛のことばが漏れるものです、「どうしてオレばっかりが」と。そんなとき、南無阿弥陀仏はどこかに置き去りになっていないでしょうか。信心なんてくそ食らえと思っていないでしょうか。順境のときは信心を喜び、人生を肯定していたのに、逆境になると信心なんて吹き飛んでしまい、人生を呪うようになるのではないかと危惧されます。
 でも、そんなふうに心配になるのは、信心を自分で手に入れたものと思っているからです。自分で手に入れたものは、また失ってしまうこともあるでしょう。持ち続けるためにはそれ相応の努力が必要です。ぼくがいつも思うのは、蜘蛛の糸にすがって極楽をめざすカンダタの姿です。彼が無事に極楽にのぼりきるためには、一瞬の気の緩みも許されません。手がしびれたからといって蜘蛛の糸を手離したら最後、たちまち地獄へ真っ逆さまです。こんなふうに自分で手に入れた信心は、ちょっと気を許せばたちまち雲散霧消してしまうでしょう。
 しかし南無阿弥陀仏は弥陀から賜った「不壊のくすり」です。それが届いていることに気がつけば「すなはち往生をえ、不退転に住す」で、もう手を離しても転落することはありません。

タグ:親鸞を読む
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