SSブログ

勢至和讃とは [『浄土和讃』を読む(その189)]

            第12回 勢至和讃

(1)勢至和讃とは

 冒頭に「首楞厳経によりて大勢至菩薩和讃したてまつる」とあります。どうして『浄土和讃』の最後に勢至菩薩を讃える8首がおかれたのか、推測の域を出ませんが、勢至和讃の末尾に「源空聖人御本地也」とありますところから、法然上人を勢至菩薩の化身としてその恩に報じようとの意図があったのではないかと思われます。現世利益和讃において、観音・勢至菩薩や無量の諸仏が念仏のひとを護りたまうとうたったことを受けて、とりわけ法然上人の恩をうたおうとしたのではないでしょうか。そしてそれが次の『高僧和讃』へとつながっていったのかもしれません。
 さて『首楞厳経』第五巻では、二十五人の聖衆(しょうじゅ)が釈迦の前に進み出て、どのようにして円通(えんずう、悟りのことです)に至ったのかを述べるのですが、その二十四番目に勢至菩薩が登場します。それをうたうのが最初の和讃です。

 「勢至念仏円通して 五十二菩薩もろともに すなはち座よりたたしめて 仏足頂礼せしめつつ」(第111首)
 「勢至念仏円通を、報告せんと立ち上がり、五十二菩薩ひきつれて、仏のみあしに額あて」

 勢至菩薩が五十二人の仲間とともに立ち上がり、釈迦の足に頭をつけるという最も丁寧な礼拝をして、次のように申し上げたというのです。

 「教主世尊にまうさしむ 往昔恒河沙劫(おうじゃくごうがしゃこう)に 仏世にいでたまへりき 無量光とまうしけり」(第112首)。
 「教主世尊にもうすには、どんな過去よりまだ過去に、ひとりの仏よに出でて、無量光仏ともうしけり」。

 勢至菩薩は阿弥陀仏の脇侍のはずですから、釈迦の前に進み出て「仏足頂礼」するというのには戸惑いを覚えますが、ともあれ勢至菩薩が釈迦に申し上げるには、往昔恒河沙劫、つまりは久遠の昔に無量光仏(阿弥陀仏)があらわれたもうたと。つまり阿弥陀仏は久遠の仏だというのです。『無量寿経』では、法蔵菩薩が成仏して阿弥陀仏になられたのは十劫の昔となっていますが、『首楞厳経』では、阿弥陀仏は往昔恒河沙劫から仏であると言われます。『法華経』で、釈迦が「われは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」と説いていたように、阿弥陀仏は久遠の仏だというのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0