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利他と他利 [はじめての『高僧和讃』(その59)]

(2)利他と他利

 『浄土論』の末尾に、その結論として「菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、無上の悟り)を成就することを得るゆゑなり」とあるのですが、それについて曇鸞は、どうしてそんなことが可能なのかと問い、そこに「阿弥陀如来の増上縁」があるからだと述べています。この増上縁が他力ということです。「われら」が一心に五念門を修めることで往生浄土ができるのに違いはないが、しかしそれも「阿弥陀如来」の他力が働いているからだということです。
 それに続いて曇鸞は印象的なことを言います、「利他と他利と、談ずるに左右(そう)あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし」と。弥陀の他力とは「他を利する力」ですから利他の力です。一方われらにも一応「他を利する力」があると言えます。困っている人を見ると、何とかしてあげようという気持ちになるのは紛れもない事実です。このように弥陀の「他を利する力」とわれらの「他を利する力」は右手と左手のようによく似ています。でも右手の手袋を左手にはめることができないように、両者はまったく違うと言うのです。
 どう違うか。われらが自分で利他のはたらきをしているには違いないが、実はそれも弥陀の力によるのだということです。
 突然ですが、ここで宿業(宿は過去ということで、業は行いという意味です)について考えてみようと思います。宿業と言いますと、どうしても悪業が頭に浮び、「卯毛羊毛(うのけひつじのけ)のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなし」(『歎異抄』第13章)と、罪の方にばかり気をとられてしまいがちですが、しかし「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへ」(同)であって、よきこともまた宿業のなせるわざであることを忘れることはできません。よきこともわろきこともみな宿業によるのです。

タグ:親鸞を読む
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