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コペルニクス的転回 [はじめての『高僧和讃』(その177)]

(5)コペルニクス的転回

 あらためて道綽・善導流の浄土教をふりかえっておきますと、まず聖道門と浄土門が明確に分けられます。今生で仏となることをめざす聖道門に対して、世は末法であり、もはやこの穢土において仏になることは不可能であるから、いのち終わって後に弥陀の浄土に往生し、そこで仏になることを期すしかないとするのが浄土門です。このように道綽・善導流の浄土教においては、いたるところに二元的対立が持ち込まれます、聖道門vs.浄土門、穢土vs.浄土、今生vs.来生というように。
 ものごとを二元に分けて見るのはぼくらの常識にかなって分かりやすい。そもそも「分かる」ということは、渾然一体となっているものをはっきり「分ける」ということです。
 今生は穢土で苦しまなければならないが、来生に浄土へ往生できることを願う。「厭離穢土、欣求浄土」(これは『往生要集』の第1章と第2章のタイトルです)、これが伝統的浄土教の明快な構図です。そこでスポットライトが当てられるのが臨終です。穢土と浄土、今生と来生の接点となるのが「命終の時」ですから。命終の時に、めでたく穢土を脱出して浄土へ迎え入れてもらえるか、はたまた穢土の輪廻をくりかえすことになるのかが決まるのですから、おのずとそこに関心が集まることになります。
 さて親鸞の「コペルニクス的転回」といいますのは、時間の決定的な切れ目を「命終の時」から「信心の時」へと移したということです。
 本願に遇えたそのときに「すなはち往生をう(即得往生)」(第18願成就文)るのであり、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(『末燈鈔』第1通)であり、あるいは「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(同第3通)のであって、臨終のときに浄土に往くのではありません。これは『観経』の浄土教から『大経』の浄土教への大転換であり、源信讃を読むとき、そのことをいつも頭に置いておかなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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