SSブログ

『大経』と『観経』 [はじめての『高僧和讃』(その212)]

(15)『大経』と『観経』

 こうして浄土教と言えば『観経』の浄土教であるということになってきたのですが、道綽以前に目を転じますと、龍樹はもちろん、天親も曇鸞も『大経』中心主義と言えます。天親の『浄土論』はその正式名称が『無量寿経優婆提舎願生偈』であり、『無量寿経』すなわち『大経』にもとづいて願生の思いをうたい上げています。また曇鸞はその『浄土論』を注釈して『論註』を著し、さらには『讃阿弥陀仏偈』という『大経』讃歌をものしました。このように龍樹から天親、そして曇鸞と『大経』中心の浄土思想が続いてきたのですが、それが道綽以後、『観経』中心の浄土思想へと大きく転換したのです。
 では『大経』と『観経』では何が違うでしょうか。
 相違点を上げれば切りがありませんが、いちばんのポイントは「往生浄土はいつか」という点です。そんなのいのち終わるときに決まっているじゃないかと言われるかもしれません。念仏するものの臨終の床に阿弥陀仏が観音・勢至ほか多くの菩薩を伴ってあらわれ、蓮華の台(うてな)に載せて浄土へと連れて行ってくださる、これが往生浄土のイメージとしてしっかり定着しています。さてしかしこのイメージは『観経』によってつくられたもので、『大経』には必ずしもそのようには説かれていません。必ずしもといいますのは、『大経』のなかにも『観経』と同様、往生はいのち終わって後のことと書いてあるところもあるのですが、阿弥陀仏の名号が聞こえたそのとき(すなわち信心をえたそのとき)に往生すると説かれてもいるのです。
 詳しく述べることはできませんが、『大経』で「臨終往生」をはっきり言っているのは第19願とその成就文とされる三輩往生の段で、「いのちの終る時に臨みて」阿弥陀仏が念仏するものの前にあらわれると説かれています。一方「即得往生」が言われているのは第18願成就文で、「その名号を聞きて、信心歓喜し、…かの国に生まれんと願わば、すなはち往生を得(即得往生)」と説かれています。そのどちらに重きをおくかは読み方にかかってくるのですが、親鸞は『大経』の本質は第18願成就文の「即得往生」にあると読みました。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。