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一生悪を造れども [正信偈と現代(その152)]

(6)一生悪を造れども

 しかしどうして真理はこちらから会おうとしても会えなくて、向こうからやってきた真理に思いがけなく遇うことしかできないのか。
 もう一度、信心すなわち「プラサーダ」に戻りますと、これは濁っていたこころがあるときさあーっと澄むということでした。信心と言いますと、こころが何か特別なことをとらえて放さないことのようにイメージしますが、そうではなく、こころの濁りが澄むということです。こころが真理を取り込むのではなく、こころが真理になるといえばいいでしょうか。こころが真理を取り込むのでしたら、こちらからそうしようと思わなければできるものではありませんが、こころ自身が澄んで真理になるというのは、そうしたいと思ってできることではありません。気がついたらそうなっていた、というものでしょう。
 さて「一生悪を造れども」とありました。弘誓に遇うことができさえすれば、一生悪を積み重ねても往生まちがいないというのです。
 「どうして?」と問えば、こんな答えが返ってくるでしょう、それは弥陀の本願というものは、一生悪を造る者のためにあるのだから、と。『歎異抄』第3章にも「願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」とあります。これはしかし模範解答すぎるような気がします。できすぎた解答は「それはそうかもしれないけれど」というわだかまりを残すものです。弘誓に遇う現場から生中継しますと、もう少し違う答え方ができるのではないでしょうか。
 弘誓に遇うとは、濁っているこころが澄むという経験でした。ここには二つの気づきがあります。ひとつは、言うまでもなく「あゝ、こころが澄んだ」という気づきです。ところが、それと裏あわせにもうひとつの気づきがあります。それは「あゝ、こころが濁っている」というものです。これまでは「こころが濁っている」などとは思っていなかったが、実はもうずっと濁りに濁っていたのだ、という自覚が生まれるということです。弘誓に遇うことができたという思いは、一生悪を積み重ねてきたという自覚と一体なのです。

タグ:親鸞を読む
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