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嘘に出遇う [正信偈と現代(その153)]

(7)嘘に出遇う

 いい話を知ることができました。あるご婦人が若い頃にお師匠さんから「仏に出遇うということは、嘘に出遇うことだ」といつも聞かされていたというのです。嘘に遇わなければ仏には遇えないと教えてくれたお師匠というのは村の鍛冶屋さんだそうです。「嘘は泥棒のはじまり」と言いますように嘘は悪の象徴です。己れの悪に遇うことがなければ弘誓に遇うことはできないと教えてくださった村の鍛冶屋さんに感謝したいと思います。
 もう一度「当今は末法、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」に戻ります。どうして末法の五濁悪世には浄土門だけが通入できるのかという問いに、五濁悪世においては、もはや聖道門的な語りは受け入れられなくなるが、浄土門的な語りだけは「何かありそうだ」と思わせるものがある、と答えてきました。ここまできまして、もう一段ふみ込んだ答えができそうです、五濁悪世の自覚と浄土門の気づきは一体である、と。
 五濁悪世と聞きますと、われらの外のどこかに五濁悪世があるように思ってしまいます。でも、五濁悪世とは「あゝ、自分が五濁悪世だ」という自覚であり、それとは別にどこかに五濁悪世があるわけではありません。末法も同じで、釈迦が亡くなって1500年経つとどこもかしこも末法となるわけではなく、「当今は末法」と自覚する人にとってはじめて当今は末法なのです。その自覚のない人にはどこにも末法なんてありません。逆に、釈迦在世の人が「いまは末法」と自覚すれば、その人にとってそのときが末法です。
 世は末法の五濁悪世だから、浄土門のみが通入すべき路であるのではなく、世は末法の五濁悪世であると自覚することと、浄土門のみが通入すべき路であると気づくことはひとつなのです。

タグ:親鸞を読む
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