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勢至和讃 [はじめての『尊号真像銘文』(その40)]

(2)勢至和讃

 『無量寿経』の三つの文が終わり、次に『首楞厳経』から勢至菩薩に関する文が取り上げられています。『首楞厳経』(正式には『大仏頂如来密因修証了義菩薩万行首楞厳経』という長い名で、中国でつくられた偽経ともいわれます)に、25人の聖者が釈迦仏にどのようにして悟りを得たかを述べる箇所があり、勢至菩薩がその24番目に登場するのです。ここに上げられた文はそのくだりです。『浄土和讃』の最後に、ちょうどこの部分が和讃にされていますので、それを読んでおきましょう(カッコ内はぼくの下手な訳です)。

 「勢至念仏円通して 五十二菩薩もろともに すなはち座よりたたしめて 仏足頂礼せしめつつ」(勢至念仏円通を、報告せんと立ち上がり、五十二菩薩ひきつれて、仏のみあしに額あて)
 「教主世尊にまうさしむ 往昔恒河沙劫(おうじゃくごうがしゃこう)に 仏世にいでたまへりき 無量光とまうしけり」(教主世尊にもうすには、どんな過去よりまだ過去に、ひとりの仏世に出でて、無量光仏ともうしけり)
 「十二の如来あひつぎて 十二劫をへたまへり 最後の如来をなづけてぞ 超日月光と
まうしける」(十二の如来あいついで、十二劫ものときがたち、最後の如来その名をば、
超日月ともうしける)
 「超日月光この身には 念仏三昧をしへしむ 十方の如来は衆生を 一子(いっし、ひとり子)のごとく憐念(れんねん、あわれに思うこと)す」(超日月はわたくしに、念仏の道おしえては、生きとし生けるものみなを、ひとり子のごと慈しむ)
 「子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を憶すれば 現前(現在)当来(未来)とほからず 如来を拝見うたがはず」(子どもが母を慕うよう、衆生如来を念ずれば、ここを去ること遠からず、如来かならずおわします)
 「染香人(ぜんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる」(香に染まったその身には、香気あたりにただよいて、ゆえに念仏するひとを、香りのひとと名づけたり)
 「われもと因地にありしとき 念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば いまこの娑婆界にして」(われもと因地にありしとき、念仏の法あたえられ、不退のくらい定まりて、いまこの娑婆に戻り来て)
 「念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり 大勢至菩薩の 大恩ふかく報ずべし」(念仏のひと包み込み、浄土へともに帰らしむ、勢至菩薩の大恩を、忘れずふかく報ずべし)
  
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