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信じるとは気づくこと [はじめての『尊号真像銘文』(その97)]

(16)信じるとは気づくこと

 そもそも、われらに救いをもたらす唯一の真理は、われらがこちらから獲得するものではありません。われらが真理をゲットするのではなく、真理がわれらをゲットするのです。われらはあるとき思いがけず真理にゲットされるのですが、それは何とも名状しがたい経験で、親鸞のことばを借りますと「こころもおよばれず、ことばもたへたり」です。しかしそれを何とかしてことばにしたいと思う、というより真理にゲットされた喜びを誰かに伝えずにいられなくなります。そしてそれをどう語るかはさまざまです。イエスは「神の愛」と言い、親鸞は「弥陀の本願」と言うように、宗教により語り口は異なりますが、語っている真理はひとつです。
 「われに真理あり」ということばに意味があるとしますと、それは「われは真理をゲットした」ということではなく、「われは真理にゲットされた」ということです。「信じれば救われる」も、「信じる」ことをこちらから何かをつけ加えることのように考えますと排他性の罠にとらえられてしまいます。それではわれらが真理をゲットすることになってしまうのです。そうではなく真理にゲットされるというのは、他でもありません、真理に気づくということです。信じるとは気づくことです。その意味であることさえはっきりしていれば「信じれば救われる」と言っても問題ありません。真理に気づくことは取りも直さず救われることですから。
 われらを救ってくれる真理はひとつなのに、さまざまな宗教が存在していることは、このように理解してはじめて納得できます。
 「(弥陀の光明は)念仏衆生を摂取して捨てたまはず」にもどりますと、このことばの意味は「まことの信ある人」はすでに弥陀の光明に摂取されていることに気づいているということです。では、まことの信のない人はと言いますと、すでに弥陀の光明に摂取されているのに、そんなこととは思いもしないということであって、まことの信がないから摂取されないということではありません。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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