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本文30 [はじめての『尊号真像銘文』(その132)]

(9)本文30

 「然我大師聖人(ねんがだいししょうにん)」といふは、聖覚和尚は、聖人(源空)をわが大師聖人と仰ぎたのみたまふ御ことばなり。「為釈尊之使者弘念仏之一門(いしゃくそんしししゃ、ぐねんぶつしいちもん)」といふは、源空聖人は釈迦如来の御つかいとして念仏の一門を弘めたまふとしるべしとなり。「為善導之再誕勧称名之一行(いぜんどうしさいたん、かんしょうみょうしいちぎょう)」といふは、聖人は善導和尚の御身として称名の一行を勧めたまふなりとしるべしとなり。「専修専念之行自此漸弘無間無余之勤(せんじゅせんねんしぎょうじしぜんぐ、むけんむよしごん)」といふは、一向専修と申すことはこれより弘まるとしるべしとなり。「然則破戒罪根之輩加肩入往生之道(ねんそくはかいざいこんしはい、かけんにゅうおうじょうしどう)」といふは、「然則」はしからしめて、この浄土のならひにて、破戒・無戒の人、罪業ふかきもの、みな往生すとしるべしとなり。「下智浅才之類振臂赴浄土之門(げちせんさいしるい、しんびふじょうどしもん)」といふは、無智・無才のものは浄土門に赴くべしとなり。(以下、本文31につづく)

 「しかるにわが大師聖人」と言いますのは、聖覚和尚は法然聖人をわが大師聖人と仰ぎ頼まれているということです。「釈尊の使者として念仏の一門を弘め」とは、源空聖人は釈迦如来のお使いとして念仏の一門を広められたということです。「善導の再誕として称名の一行を勧めたまへり」とは、聖人は善導和尚の生まれ変わりとして称名の一行を勧められたということです。「専修専念の行、これよりやうやく弘まり、無間無余の勤め」とは、一向専修の教えはこれから広まるということです。「しかればすなはち、破戒罪根の輩、肩を加りて往生の道に入り」の「しかればすなはち」は「しからしめる」ということで、この浄土のならいで、破戒無戒の人や、罪業の深い人も、みな往生できるということです。「下智浅才の類、臂を振うて浄土の門に赴く」とは、無智無才のものは浄土門に赴くべしということです。

タグ:親鸞を読む
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