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物語としての語り [はじめての『尊号真像銘文』(その131)]

(8)物語としての語り

 もしその真理を釈迦がみずからゲットしたのでしたら、それがどれほど複雑微妙なものであっても、自分がどのようにしてそこに至ったかを語ることで相手に納得してもらえるに違いないと思えたでしょう。しかしそれはむこうからやってきて、知らないうちに釈迦をゲットしてしまったのです。気づいたときにはもうすでにその中にいたのです。それをどう語ればいいのか、釈迦は悩んだことでしょう。
 でも、結局かれは語りはじめます。梵天の勧請をうけてということになっていますが、真理に遇うことができた喜びがもう黙っていられなくさせたということに違いないと思います。釈迦は「ノンフィクションの語り」をはじめ、それが仏教の伝統となるのですが、大乗仏教において、もうひとつの語り方が生まれました。「フィクションの語り」、あるいは「物語としての語り」で、それが浄土教の語りです。
 しかし真理を語るのに物語を持ち出すのはどんなものか、そんなことをすればせっかくの真理が台なしになってしまうのではないかという心配があるかもしれません。このように心配する人は物語はただのエンターテインメントで真理とは関係がないと思っているに違いありません。しかしたとえば『罪と罰』という小説を考えてみましょう。あれは紛れもない物語で事実ではありませんが(モデルとなった事件があったようですが)、しかしあの中に「罪と罰」についての深い真理が描き出されていないでしょうか。
 「事実は小説より奇なり」ということばがありますが、「小説は事実より真なり」とも言えると思うのです。学問的論文が上で、小説や詩は下などというのは偏見以外の何ものでもありません。聖道門と浄土門についても同じで、どちらもひとつの真理を語ろうとしているのですが、前者は「ノンフィクションの語り」を用い、後者は「フィクションの語り」を採用しているのであって、そこに上も下もありません。

タグ:親鸞を読む
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