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これみな弥陀の御ちかひ [親鸞の手紙を読む(その68)]

(7)これみな弥陀の御ちかひ

 「信の一念」と「行の一念」はふたつにしてひとつであることを言うのに、親鸞は「これみな弥陀の御ちかひ」であるという決定打を放ちます。信も弥陀の誓いであり、行も弥陀の誓いであるのだから、ひとつであるというのです。勝負あり!の感があります。
 思い出すのが『歎異抄』「後序」のエピソードです。吉水時代の親鸞があるとき「わたしの信心と法然上人の信心はひとつ」と言ったとき、上足の弟子たちが「まだ出だしのおまえと法然上人の信心がひとつなどということがあるものか」と反発し、最後に法然上人自身の裁断を仰いだところ、「源空が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房(親鸞です)の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればただひとつなり」という仰せがあったというあの有名なエピソードです。
 その場の情景が目の前に浮ぶようです。信心も念仏も如来よりたまわったものだからひとつであるということ。見事な答えにもうグーの音も出ません。さてしかしその一方で、信心と念仏を如来からたまわるというのはどういうことか、まだわだかまりが残るかもしれません。普通に考えれば信心も念仏もわれらの領分に属することであり、それが「弥陀の御ちかひ」とどう関係するのか了解に苦しみます。われらが本願を信じ、われらが名号を称えるのであって、それ以外のどこにも信も行もないように思われます。
 たしかにわれらが本願を信じ、われらが名号を称えることは動かせませんが、ただ忘れてならないのは、われらが本願を信じ、名号の称えるのは、それに先立って弥陀からそのように「うながされている」からだということです。表現はいろいろで、弥陀から「願われている」のであり、弥陀から「呼びかけられている」のであり、弥陀から「招喚の勅命を受けている」のである等々で、われらはそれに導かれるように本願を信じ、名号を称えるのです。われらが信じ、われらが称えるには違いありませんが、信も行もすべて弥陀のもよおしであるということです。
 これが「行と信とは御ちかいを申すなり」の意味です。

タグ:親鸞を読む
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