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「わたしのいのち」はそのまま「ほとけのいのち」 [親鸞の手紙を読む(その123)]

(10)「わたしのいのち」はそのまま「ほとけのいのち」

 「わたしのいのち」はかけがえがありませんが、だからと言って他の無数のいのちたちと無関係にそれ自体として存在するわけではなく、他のいのちたちと切っても切れない関係のなかにあります。というよりも、互いに繋がりあっている縦横無尽の糸のひとつの結ぼれが「わたしのいのち」です(縦横無尽の縦が時間的、横は空間的な繋がりを意味します)。そして縦横無尽の繋がりの総体が「ほとけのいのち」に他なりませんから、「ほとけのいのち」のなかから、あるとき、一定の因と縁により「わたしのいのち」という独特の結ぼれが生まれたと言えます。その結ぼれはそれ自体が複雑に変化しつづけながらも、一定の期間は結ぼれとして維持されます。これがぼくらの人生です。
 さて、この結ぼれもいずれ解消されるときがきます。複雑に変化しつづける因と縁により、あるときついにその結ぼれが解かれる。これがぼくらの人生の終焉ですが、それは「わたしのいのち」がまた「ほとけのいのち」に解消されていくということに他なりません。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」という故郷から出てきて、また「ほとけのいのち」へと帰っていくということです。このように「わたしのいのち」はもともと「ほとけのいのち」であり、そしてまた「ほとけのいのち」へと戻っていくのですから、紛れもなく「わたしのいのち」でありながら、そのままで「ほとけのいのち」であると言えます。
 おたまじゃくしは蛙から生まれてきて、いずれまた蛙になっていくのですから、おたまじゃくしでありながら、そのままで蛙であるということもできるのではないでしょうか。
 このように考えてきますと化身という感覚も身近なものとなります。どの人ももともとは「ほとけのいのち」であり、それがいま、たまたまそれぞれの「わたしのいのち」をまとっているだけで、またいずれ「ほとけのいのち」に帰っていくのですから、みな仏の化身ということになります。法然は勢至菩薩の化身で、親鸞は観音菩薩の化身であるというのは、何もかれらだけが特別な存在であるということではなく、どんな人も例外なく仏の化身だということではないでしょうか。

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
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