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「アミタのいのち」を「観る」 [『観無量寿経』精読(その15)]

(3)「アミタのいのち」を「観る」

 「アミタのいのち」を「観る」というのは、どうしてそんなことが可能かということは別にして、それがどういうことなのかは分かりやすいと思いますが、それに対して「アミタのいのち」を「聞く」とはどういうことか、すぐにはピンときません。その「聞く」ことについて分かりやすく教えてくれるのが善導の「二河白道の譬え」と言えるでしょう。貪欲と瞋恚の二河の間にある幅4,5寸の白道(これが本願・念仏の道です)の前にたたずむ旅人に河の西岸から「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」という声が聞こえるというのです。
 この声が「アミタのいのち」の名のりであり、招喚の勅命です。「アミタのいのち」が名のりを上げ「ただちに来れ」と招喚してくれるこの声に吸い寄せられるように、旅人は決然と一歩を踏み出す、これが「聞其名号、信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」のときです。そしてそれが「即得往生(すなはち往生を得)」(いずれも第18願成就文)に他なりません。こんなふうに「アミタのいのち」を「聞く」とは、それに思いがけず捉えられる(ゲットされる)こと、「ただちに来れ」という声に全身が鷲づかみされることですが、では「アミタのいのち」を「観る」とはどういうことか。
 それは「アミタのいのち」をこちらから捉えようとする(ゲットしようとする)ことです。そしてそれと一体になろうとする。さて考えなければならないのは、「アミタのいのち」を「観る」、すなわちこちらからゲットすることが可能かどうかということです。「わたしのいのち」は「ミタ(有量)のいのち」ですから、それが「アミタ(無量)のいのち」を捉えることができるはずがありません。そもそも「アミタのいのち」を「観る」ことはできる相談ではないということです。にもかかわらず釈迦は韋提希の願いをいれて、「アミタのいのち」を「観る」ための方法を語ろうと言う。そのことを「譬へを説き」ということばに託していると考えられます。
 さて、「アミタのいのち」を「観る」ことを説くに先だって「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし」と言われますが、これはどういうことでしょう。三福とは、まず世福(世俗的な善)として「父母に孝養し、師長に奉事し云々」、そして戒福(小乗の善)として「三帰を受持し、衆戒を具足し云々」、さらに行福(大乗の善)として「菩提心を発し、深く因果を信じ云々」の三つですが、これが真っ先に言われるのはどうしてか。

タグ:親鸞を読む
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