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能動と受動のあわい [『教行信証』精読2(その58)]

(5)能動と受動のあわい

 この本は、インド=ヨーロッパ語族の古代ギリシャ語やサンスクリットにおいて、動詞の態が能動態と受動態とに分かれるより以前に中動態とよばれるものがあったことを教えてくれます。それは能動でもないし、かといって受動でもない。あるいは能動でもあるし、同時に受動でもあるようなものですが、その中動態がいつしか消えて、能動態と受動態の対になったのだというのです。こうなりますと、ものごとは能動であるか、さもなければ受動であると見られるようになり、能動でもあるが同時に受動でもあるという見方は消えていかざるをえません。
 親鸞の言う他力とは、能動でもあり同時に受動でもあるというこの中動ではないでしょうか。それは「する」ではもちろんありませんが、かといって「される」でもない。あるいは「する」でもあり、同時に「される」でもあるような事態のことではないか。もしそうだとしますと、この事態を言い表そうとしても、どうしてもことばが追いつかず、もどかしい思いに悩まされるのも頷けます。それを言い表すべきことばが、以前はあったのに(著者は日本語にも中動態に相当するものがあったと言います)、いつの間にかなくなってしまったからです。
 真宗でよくつかわれることばに「生かされている」があります。「われらは本願他力に生かされている」と言われ、この言い回しはどこか人のこころを動かす力があります。しかしその一方でこのことばはしばしば強い反感を買います。「他力本願」ということばは非難のことばとしてつかわれるのです。「そんな他力本願でどうする、自分でやろうとしなければダメじゃないか」という叱声が学校や職場を飛び交っています。「いや、親鸞のいう本願他力はそれとはちょっと違うんだけど」と思うのですが、さてしかしどう違うのかを言おうとすると脂汗が流れることになります。

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自力と他力 [『教行信証』精読2(その57)]

(4)自力と他力

 ことは自力と他力に関係してきます。名号を聞くことなく、ただそれを称えるのは自力の念仏であり、他力の念仏ではないということです。さてしかし自力の念仏といい、他力の念仏というのはいったい何か。自力の念仏とは何かという問いは答えやすいでしょう。念仏することにより何かを手に入れようとすること、つまり手段としての念仏であり、ためにする念仏であると言えばいい。病気が治りますようにとか、長生きできますようにと願って念仏するのは論外としても、往生できますようにと念仏するのも自力の念仏であることには変わりありません。
 では他力の念仏とは何かですが、これに答えるのが難しい。念仏とは名号を口に称えることですから、これはどう言い繕おうとも「自分が称えようと思って称える」しかなく、その意味では自力という他ありません。しかし往生しようとして称えるとなると、これはもう他力の念仏ではなくなります。ですから、念仏はあくまで自分で称えようとして称えるのですが、しかしそれによって往生しようとするのではない。さてこれはどういうことでしょうか。
 親鸞の他力思想について語ろうとしますと、どうしてもことばが追いつかない思いに悩まされてきましたし、いまもそうです。これまで様々に語り方を工夫し、新たなことばが見つかった当座はこれでいいかなと思うのですが、そのうち満足できなくなって、もっと違う言い回しはないものかと模索する、その繰り返しです。何だかラセン階段をグルグルとどこまでも昇り続けているような感じです。
 どうしてことばが追いつかないのか、という疑問に答えてくれそうな本に出あいました。前にもちょっと触れたことがありますが、国分功一郎氏の『中動態の世界』です。この本によりますと、ぼくらは能動態と受動態しかないことばの世界に生きていて、ものごとを考えるときに「これは能動かそれとも受動か」としか発想できません。そこで例えば親鸞の他力を考えるときにも、これは能動か受動かと発想し、能動ではなく受動であると考えてしまうのです。「する」ではなく「される」だと。
 さてしかし親鸞が他力というのは「される」ということでしょうか。どうも違うように思うのですが、どう違うのかをうまく表現することができなくて、もどかしい。

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聞名と称名 [『教行信証』精読2(その56)]

(3)聞名と称名

 四十八願のなかで念仏に言及しているのはたしかに第18願だけですが、名号にあたることば(わが名、わが名号、わが名字)はかなりの数に上ります。そしてそれらにつづくことばは例外なく「聞く」であるということ、ここに秘密を解く鍵があります。
 ぼくらは名号といいますと、それを「称える」ものと考えてしまいがちですが、四十八願においては圧倒的に「聞く」ものであることが分かります。たとえば第34願を見ましょう。「たとひわれ仏をえんとき、十方の無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍(真実のさとり)、もろもろの深総持(深い智慧)をえずば正覚をとらじ」。ここに出てくる「聞我名字(わが名字を聞きて)」という句はこの34願からあとのほとんどすべての願に登場します。
 ぼくらは大きな勘違いをしてきたのではないでしょうか。名号とくれば称名と決めつけ、名号を聞くことが置き去りにされてきたのではないかということです。
 親鸞はこの勘違いを指摘して、名号はまず聞くものであり、しかるのちに称えるのだと教えてくれました。名号を聞く、すなわち信心が、名号を称える、すなわち念仏に先立たなければならないということ、これをことあるごとに教えてくれたのです。「真実の信心はかならず名号を具す、名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」という「信巻」のことばはまさにそのことを指摘するもので、聞名(信心)があればかならず称名(念仏)があるが、称名があるからといってかならずしも聞名があるわけではないということです。
 そして第18願も、伝統的に「念仏往生の願」と捉えられ、源信もまた「乃至十念」に着目して特別の願としたのですが、親鸞はむしろこれを「至心信楽の願」と捉えました。「十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて(至心信楽、欲生我国)、乃至十念せん」とあるところを、至心信楽が飛ばされ、乃至十念に眼がつけられてきたのですが、それではこの願は名号を称える願になってしまい、名号を聞くこと、すなわち信心がどこかに置いてきぼりになると考えたのです。
 さて、名号を聞くことが置いてきぼりになり、名号を称えることだけに着目されることのどこに問題があるのでしょう。

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念仏は往生のための行? [『教行信証』精読2(その55)]

(2)念仏は往生のための行?

 源信が言うのは、往生の行として念仏を勧めるからといって「余の種々の妙行を遮する」のではないということ、ではどうして念仏を勧めるかと言うと「男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず」であり、とりわけ臨終において「その便宜を得たるは念仏に」まさるものがないからだということです。往生できるかどうかの瀬戸際である臨終において、間違いなく修めることができる行として念仏にまさるものはないということです。源信にとって念仏とは「来生の往生のためにわれらが修すべき行」であることが明白です。
 源信はその証拠として経論にもとづき十の文を上げているのですが、ここではその二つ目から四つ目までの三文が引かれています。二つ目の文と三つ目の文は大経、四つ目は観経にもとづいていますが、このようにそれぞれの経典から念仏に絞って関係する部分を拾い出そうとすると、意外に少ないことに気づかされます。源信は大経から三輩段と第18願を、そして観経から下下品を上げています(観経からはさらに二つの文が取り上げられますが、それらは念仏には直接関係しません)。因みに、大経で念仏に関わるところとしては、さらに第18願成就文、そして末尾の弥勒付属文を上げることができますが、それにしてもわずかであると言わなければなりません。
 浄土の教えは念仏の教えであるはずなのに、それが依拠する経典において念仏に言及される箇所が意外に少ないということは改めて考えてみなければなりません。
 ここでは大経の四十八願に絞り、どうしてそういうことになるかに思いをはせたいと思います。源信は第18願について「念仏門において、別してひとつの願をおこし」と特別扱いし、その願を「乃至十念せん、もし生ぜずば正覚をとらじ」と「乃至十念」に注目して要約しています。たしかに第18願の兄弟願と言うべき第19願、第20願にも「わが国に生まれんと欲わん」とあっても念仏に相当するような文言は登場しませんから、その意味で第18願を別願とするのも頷けます。四十八願のなかに念仏にあたることばが出てくるのは、ただ第18願だけであるということ(第17願に「わが名を称する」とありますが、これは諸仏について言っていますので除きます)、これは何を意味するのでしょう。

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本文1 [『教行信証』精読2(その54)]

        第4回 往生の業には念仏を本とす―源信、源空

(1)本文1

 龍樹からはじまりインドと中国の多くの祖師たちが念仏を讃嘆する文が引かれてきましたが、ここにきてようやくわが日本の高僧が登場します。まずは源信です。

 『往生要集』にいはく、「『双巻経(大経のこと)』の三輩(往生浄土を願う行人を上輩・中輩・下輩の三種類に分けたもの)の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな一向専念無量寿仏といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別してひとつの願(第18願のこと)を発(おこ)してのたまはく、乃至十念、若不生者、不取正覚(乃至十念せん、もし生ぜずば正覚をとらじ)と。四つに『観経』には、極重の悪人、他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得』」と。以上

 (現代語訳) 源信和尚の往生要集にこうあります。(二つ目に)無量寿経の三輩段において、上輩・中輩・下輩のそれぞれの行業に浅深の違いはあっても、みな共通して「一向に専ら無量寿仏を念じて」と説かれています。三つ目に、四十八願の中で特に第十八願において、もし、たとえ十回でも念仏して往生できないようなら、わたしは正覚をとらないと誓われています。四つ目に、観経において、極重の悪人には他の手立てはありません、ただ弥陀の名号を称えて極楽往生するばかりですと説かれています。

 この文章は『往生要集』の大門第八(第八章ということです)、「念仏証拠」に出てきます。この書物は大門第一の「厭離穢土」から最後の「問答料簡」までの十大門から構成されていますが、その大門第八が「念仏証拠」で、ここでは往生の行として念仏を勧める根拠について論じられています。源信はまずこう問います、「一切の善業はおのおの利益あり、おのおの往生することを得てん。なんがゆゑぞ、ただ念仏の一門を勧むる」と。そしてこう答えます、「今念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥(ぎょうじゅうざが、行くこと、留まること、坐ること、臥すこと)を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ」と。この文に源信のスタンスがはっきりと表れています。

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罪に穢れた身のままで救われている [『教行信証』精読2(その53)]

(21)罪に穢れた身のままで救われている

 「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」と親鸞は言います(「信巻」)。信心とは聞名(むこうから名号が聞こえること)であり、念仏とは称名(こだまのように名号を称えること)ですが、聞名があればかならず称名があるが、称名があるからといって、かならずしも聞名があるわけではない、ということです。聞名がないのに、称名するとき、その称名は呪文となります。これを頭において念仏と滅罪について考えるとどうなるでしょう。
 念仏することによりこれまでの罪がリセットされ、罪に穢れた身がまっさらの身になるわけではありません、罪に穢れた身はそのままです。では滅罪とは何か。
 聞名のとき何が起こるか、その現場に立ち返りましょう。それを表現することばはいろいろあります。まずは摂取不捨、そして正定聚不退、さらには即得往生。どれも深い安心の境地をあらわしていますが、それをぼく流に言い換えますと、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに思い至るということです。「このいのち」は、このままでもう「ほとけのいのち」なのだと思うとき、深い安堵が与えられます。あゝ、このいのちのままでもう救われているのだという安堵。
 罪に穢れた身のままで救われていると思えること、罪に穢れた身のままで生きていていいのだと思えること、これが滅罪です。
 『歎異抄』第1章に「しかれば本願を信ぜんには(信じたからには)、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」とありますが、これが念仏による滅罪ということです。本願に遇うことができ、念仏の人となれたからは、もう「こんな悪人が救われるはずがない」と思いに脅かされることはなくなるというのです。こんな悪人が、悪人のまま救われるのです。これはもう罪が滅し、悪が消えたということではないでしょうか。

                (第3回 完)

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八十億劫の生死の罪を除き [『教行信証』精読2(その52)]

(20)八十億劫の生死の罪を除き

 顧みますと、善導のあと、法照、憬興、張掄、慶文、元照、戒度、用欽とつづき、そしてここで嘉祥、法位、飛錫が取り上げられますから、合わせて10人(慈愍と慈雲を入れれば12人)の傍依の諸師が顔をそろえたことになります。その宗派も、律宗、法相宗、天台宗、三論宗、禅宗とほぼすべてを網羅しています。この時代(唐代から宋代)の中国仏教界において浄土の教えがいかに注目されていたかがよく分かります。みな口をそろえて念仏のすばらしさを讃嘆するのですが、ここではとりわけ滅罪の功徳に注目されています。すでに善導がそれを滅罪増上縁として取り上げていましたが、あらためて念仏と滅罪について考えてみようと思います。
 関係する経文は『観経』下下品の「仏の名を称うるがゆえに、念々の中において、八十億劫の生死の罪を除き云々」ですが、この文言をそのまま受け取り、これまで積もりに積もった罪という罪が念仏することできれいさっぱり消えてしまうと理解していいのでしょうか。そして、どうしてそんなことがおこるかといえば、念仏することが「仏の無量の功徳を念ずる」(嘉祥)ことだからであり、同じことですが、「名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し」(法位)てくれるからでしょうか。これまた文字通りにそのまま受け取っていいものでしょうか。
 これが、弥陀の名号にはあらゆる功徳がつまっているから、それを称えることでそこにつまっている功徳をわがものとすることができるという意味だとしますと、念仏は霊験あらたかな呪文であることになりますが、余人はいざ知らず、親鸞がそのようなことをいうわけがありません。呪文というのは何かの利益(家内安全、病気平癒など)をえるために称えるものですが、親鸞にとって名号はこちらが称えるより前にむこうから聞こえてくるものであるということ、むこうから呼びかけられるから、それにこだまするように応えるのであること、ここに両者をはっきり分けるメルクマールがあります。

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本文9 [『教行信証』精読2(その51)]

(19)本文9

 中国の傍依の祖師たちの最後に、三論の嘉祥(かじょう)、法相の法位、そして禅宗の飛錫(ひしゃく)の三人が取り上げられます。

 三論の祖師、嘉祥(かじょう)のいはく、「問ふ。念仏三昧はなにによりてか、よくかくのごとき多罪を滅することを得るやと。解(げ)していはく、仏に無量の功徳います。仏の無量の功徳を念ずるがゆゑに、無量の罪を滅することを得しむ」と。以上
 法相の祖師、法位のいはく、「諸仏みな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。以上
 禅宗の飛錫(ひしゃく)のいはく、「念仏三昧の善、これ最上なり。万行の元首なるがゆゑに、三昧王といふ」と。以上

 (現代語訳) 三論宗の祖師・嘉祥(吉蔵のこと、三論宗の創始者)がこう言われています。念仏三昧はどうしてこれほど多くの罪を滅することができるのかと問いますと、こう答えることができます。仏には無量の功徳が備わっています。その無量の功徳を心に憶念し称えるのですから、無量の罪を滅することができるのですと。
 法相宗の祖師・法位はこう言われます。諸仏はもてる徳をその名に託します。ですから仏の名を称えるということは仏の徳を称えているのです。仏の徳はよく罪を滅し、福を与えてくれます。仏の名も同じで、それを信じ称えることで、よく善を生み悪を滅することは間違いなく疑いありません。称名により往生することにどうして惑うことがありましょうか。
 禅宗の飛錫はこう言われます。念仏三昧のもたらす善は最上のものです。念仏は万行の元首ですから三昧の王と言われるのです。

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諸仏とは [『教行信証』精読2(その50)]

(18)諸仏とは

 釈迦が宇宙からの暗号を傍受し解読したといいましたが、それは釈迦ひとりではないでしょう。さまざまな時、さまざまな所に傍受者、解読者はいたに違いありません。解読されたことばはさまざまでしょうが、みな宇宙からやってきた同じ暗号の解読ですから、世界の諸宗教は、それが本物である限り(本物であるかどうかは宇宙の願いに気づいたものならすぐ見分けることができます)、ひとつにつながっています。宗教間の争いというのは、宗教以外の要因から起こるのであり、宗教そのものに争う理由は何もありません。
 さて釈迦は宇宙の願いを傍受・解読し、それを弥陀の本願ということばで語って人々に伝えてくれた。かくして弥陀の本願にはありとあらゆる功徳がつまっていて、それを聞くことができさえすれば、どんな境遇にあっても安心して生きていくことができることが示されたのです。この釈迦の証言をたよりに、弥陀の本願を聞くことができた人は、その慶びをまた他の人に証言することでしょう。このようにして弥陀の本願がみんなのもとに届けられていくことになります。弥陀の本願は人から人へとリレーのように伝えられていく構造になっているのです。
 これが弥陀と諸仏との関係だとしますと、ここから諸仏とは誰のことかが明らかになってきます。あらためて整理しますと、宇宙の願いを釈迦が傍受しそれを弥陀の本願ということばで語ってくれました。そして釈迦から弥陀の本願を受け取った人は、それをまた他の人へ伝えていく。このようにして弥陀の本願はみんなもとに届けられていくのです。としますと弥陀の本願を証誠する諸仏というのは、弥陀の本願のリレーに参加しているみんなということになります。
 弥陀の本願を聞くことができた人は諸仏に他ならないなどとは何という妄言かと思われるかもしれませんが、考えてみますと、弥陀の本願が聞こえるということは「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であることに気づくことです。としますと、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」と「同じ」とは言えないとしても、「ひとしい」と言うことはできるのではないでしょうか。親鸞は「おなじ」と「ひとし」をはっきり区別し、念仏の人は仏に「おなじ」ではないが、「ひとし」と言います。

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弥陀と諸仏 [『教行信証』精読2(その49)]

(17)弥陀と諸仏

 戒度も用欽も元照の弟子として師の教えをよく服膺し、弥陀の名号に一切の功徳がおさまっていることをそれぞれに述べています。
 ここで注目したいのは用欽が言及している「弥陀と諸仏の関係」についてです。弥陀の名号にすべてがおさまっているならば、弥陀一仏で十分であるはずなのに、どうして弥陀以外の多くの仏たちが登場してくるのかという問題です。その答えは明らかで、弥陀の名号に一切の功徳がおさまっていて、それを称えることで衆生の願いがかなうのだということを、世界の隅々まで広く説き明かすために諸仏が登場しなければならないということです。それは『阿弥陀経』において十方諸仏が弥陀の名号を証誠(しょうじょう、真であることを証明)していることにあらわされていますし、また『無量寿経』の第17の願、諸仏称揚の願に示されています。
 いや、それより何より、釈迦が弥陀の本願名号の教えを説いたことそのことが弥陀と諸仏の関係を明らかにしてくれます(釈迦も諸仏のひとりです)。釈迦は弥陀の本願を証誠し、弥陀の名号を称揚するために世に現れたということです(「如来所以興出世、唯説弥陀本願海―如来世に興出したもう所以は、ただ、弥陀本願海を説かんとなり」)。釈迦が世にあらわれ、弥陀の本願名号を証誠し称揚しなければ、弥陀の本願名号は埋もれたままであったということ、ここに浄土の教えのいちばん深い秘密があります。弥陀の本願名号は、それを誰かがことばとして伝えない限り衆生のもとに届きませんし、衆生に届かないということは存在しないということに他なりません。
 前に、弥陀の本願とは、言ってみれば宇宙の願いであると述べました。阿弥陀仏(無量寿仏、無量光仏)とは無限の宇宙であり、本願はその願いです。ただその願いは暗号のようなもので、それを誰かが傍受し、人間のことばに解読しなければなりません。釈迦はそれをした人であり、彼は宇宙からやってくるかすかな暗号を傍受し、それを解読して弥陀の本願ということばで語ってくれたのです。

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