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本文4 [『教行信証』精読2(その27)]

(10)本文4

 憬興の次は、張掄(ちょうりん)の文です。

 『楽邦文類』にいはく、「総管(軍事を司る)の張掄(ちょうりん、宋代の人、日々念仏にはげむ)いはく、仏号はなはだたもち易し、浄土はなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径(せっけい、近道)にしくなし。ただよく清晨俛仰(しょうじんめんこう、夜明けのわずかな間)のいとまをやめて、つひに永劫不壊(ようごうふえ)の資(たすけ)をなすべし。これすなはち力を用ゐることは、はなはだ微(び)にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。衆生またなんの苦しみあればか、みづから棄ててせざらんや。ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭(じゅよう、命がはかない)にして保ちがたし。呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。一たび人身を失ひつれば万劫にも復せず。この時悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは、深く無常を念じて、いたづらに後悔をのこすことなかれと。浄楽の居士張掄、縁を勧む」と。以上

 注 南宋の宗暁(しゅうぎょう)の撰。楽邦すなわち浄土に関する経論の要文を集めた書。

 (現代語訳) 『楽邦文類』のなかで惣管の職にある張掄がこう言っています。名号を称えるのは易しく、浄土へは往き易い。仏教には八万四千の法門がありますが、この教えにまさる近道はありません。ただ早朝のひと時を割いて、永劫にたすかるための念仏行をするべきです。これは力をもちいることきわめて少なく、その功たるや尽きることはありません。人々は何の苦しみがあってか、この教えをすてて顧みないのでしょうか。あゝ、人生は夢幻のようであり、そこに真実はありません。そして寿命を保つことは難しい。一度息を吸い吐く間にも、すぐ来世です。そして一たび人身を失ってしまえば、今度また人身をえることができるのはいつのことでしょう。いま覚らなければ、仏といえども如何ともしようがありません。願わくは、人生の無常を思い、のちに悔いを残すことがありませんよう。浄楽居士・張掄、縁ある人々に勧めます。

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「わたしの願い」と「ほとけの願い」 [『教行信証』精読2(その26)]

(9)「わたしの願い」と「ほとけの願い」

 慙愧の念は「わたし」という場に現れますが、それは「わたし」が生みだしたものではなく、「わたし」を通り越してどこかむこうからやってきたものであるということです。謝罪のことばが口先だけと感じられるのは、それを本人が一生懸命紡ぎ出しているが、そこに慙愧の念が現れていないからということでした。謝罪のことばはいくらでも自分で生み出すことができますが、慙愧の念はそういうわけにはいきません。ここは慙愧しなければならないと思って慙愧できるものではありません。どこかから「おまえは何というヤツだ」という声が聞こえてきて、その声にうなだれざるをえなくなるとき、そこにはじめて慙愧の念が現れるのです。
 願生の念も同じです。往生したい(救われたい)という願いは「わたし」という場に現れますが、しかしそれは「わたし」が生みだしたものではなく、どこか遠くからやってきたものです。むこうから「帰っておいで」という声が聞こえて、これまで濁りに濁っていたこころがサアーと澄み、そこに「帰りたい」という願生の念が現れるのです。「わたしの願い」が、ただ「わたしの願い」であるだけでは(「わたし」が生みだしたものであるときは)、それが実現される保証はどこにもありません。しかしそれが「わたしの願い」でありつつ、実は「ほとけの願い(本願)」であるとき、はじめてそれは「かくることなき」ものであり、「むなしからざる」ものであり、「壊することなき」ものであり、そして「かならずはたしとぐる」ものです。
 わたしが慙愧しているには違いないが、しかしわたしが慙愧の念を生みだしているのではなく、それはどこかからやってくるものであるように、わたしが願生しているには違いありませんが、しかしわたしが願生の念を生みだしているのではなく、それはほとけからやってきているのです。わたしが願っているに違いないのですが、その実、わたしは願われているからこそ、それは「かならずはたしとぐる」のです。

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本願力のゆゑに [『教行信証』精読2(その25)]

(8)本願力のゆゑに

 二つ目の文は、往生(救い)は本願力によるということ、そして本願力は「かくることなき」ものであり、「むなしからざる」ものであり、「壊することあたはざる」ものであり、「はたしとぐる」ものであるから、かならず往生できる(救われる)のだと述べています。救いはわれら自身が願うことです。その願いのないところに宗教はありません。しかしわれらの願いは大概「かくる」ものであり、「むなしい」ものであり、「壊する」ものであり、「はたしとげざる」ものです。われらの願いがもしそのようなものでなくなっているとすれば、それは「わたしの願い」でありつつ、実は「ほとけの願い(本願)」であるときです。「わたしの切なる願い」であるには違いありません、でもそれが実は「ほとけの願い」であることに気づいたとき、それはほんものであると言えます。
 少し前に国分功一郎氏の『中動態の世界』という本を読みました。非常にスリリングな本で、ゆっくり味わいながら読ませてもらいましたが、その出だしのところに興味深い一段があります。ちょっと引用してみましょう。「相手に謝罪を求めたとき、その相手がどれだけ『私が悪かった』『すみません』『謝ります』『反省しています』と述べても、それだけで相手を許すことはできない。謝罪する気持ちが相手の心のなかに現れていなければ、それを謝罪として受け入れることはできない。そうした気持ちの現れを感じたとき、私は自分のなかに『許そう』という気持ちの現れを感じる」。このように述べた上で、著者はこう結論します、「たしかに私は『謝ります』と言う。しかし、実際には、私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである」と。
 日々テレビで謝罪の場面が報じられます。それをみていますと、口では謝罪しているが、ほんとうに謝罪してようには感じられないことがほとんどです。国分氏は、それは謝罪している本人の意思とは関係なく(本人としては誠心誠意謝罪しているつもりでも)、そこに謝罪の気持ちが現れていないからだと指摘します。彼が言う謝罪の気持ちとは仏教的には慙愧の念のことでしょう。謝罪しているところに慙愧の念があるかどうかが問題であり、そしてその慙愧の念は自分で起こすことができるものではなく、どこかからやってきてそこに現れるものであるということ。国分氏の議論からそのようなことを汲み取ることができます。

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自然のひくところ [『教行信証』精読2(その24)]

(7)自然のひくところ

 最初の文は、「ゆきやすくしてしかもひとなし。そのくに逆違せず、自然のひくところなり(易往而無人、其国不逆違、自然之所牽)」という『無量寿経』の印象的なことばについて論じています。浄土は自然のひくところであり、これほど往き易いことはないと思われるのにどうして人がいないのかということについて、憬興は「因を修すればすなはちゆく。修することなければ生ずることすくなし」と述べています。この「因を修す」とはどういうことでしょう。往生の因は信心ですから、信心さえあれば往生できますが、信心がないと往生は難しいということです。ただ、「修す」ということばには注意が必要で、これをわれらが信心という「心構え」を作らなければならないと受けとりますと、大事なことがどこかにすっ飛んで行ってしまいます。
 信心とはわれらの「心構え」ではなく、むしろ「構えをなくすこと」です。構えるというのは、本願をゲットしようと身構えるということですが、そうすればするほど本願から遠ざかってしまいます。逆に、構えをはずすことで本願にゲットされるのです。これが「自然のひくところなり」ということでしょう。親鸞は『尊号真像銘文』においてこの文を注釈するなかで、「大願業力のゆへに、自然に浄土の業因たがはずして、かの業力にひかるるゆへにゆきやすく、無上大涅槃にのぼるにきわまりなしとのたまへる也。しかれば自然之所牽とまふすなり。他力の至心信楽の業因の自然にひくなり。これを牽といふ也。自然といふは、行者のはからにひあらず」と述べています。
 親鸞は自然ということばを他力を表すものとして大事にし、いろいろなところでつかっていますが(もっともよく知られているのが「自然法爾」でしょう)、その要諦は「行者のはからひにあらず」ということです。先ほどは「構えをなくす」と言い、ここでは「はからいがない」とありますが、いずれも否定形になっています。他力信心とは何か肯定的なものではなく、むしろ否定的なものであるということ、何かをプラスすることではなく、むしろマイナスすることであることが分かります。

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本文3 [『教行信証』精読2(その23)]

(6)本文3

 さらに『述文讃』からの引用です。

 またいはく、「易往而無人 其国不逆違 自然之所牽(ゆきやすくしてしかもひとなし。そのくに逆違せず、自然のひくところなり)1。因を修すればすなはち往く。修することなければ生ずることすくなし。因を修して来生するに、つひに違逆せず。すなはち易往なり」と。
 またいはく、「本願力故(本願力のゆゑに)2といふは、すなはち往くこと誓願の力なり。満足願故(満足願のゆゑに)といふは、願として欠くることなきがゆゑに。明了願故(明了願のゆへに)といふは、これを求むるに虚しからざるがゆゑに。堅固願故(堅固願のゆへに)といふは、縁として壊(やぶ)ることあたはざるがゆゑに。究竟願故(究竟願のゆへに)といふは、かならず果し遂ぐるがゆゑに」と。
 またいはく、「総じてこれをいはば、凡小をして欲往生の意(こころ)を増さしめんと欲(おも)ふがゆゑに、すべからくかの土の勝れたることを顕すべし」と。
 またいはく、「(観音・勢至菩薩が)すでにこの土にして菩薩の行を修すとのたまへり。すなはち知んぬ、無諍王(むじょうおう)3この方(娑婆世界)にましますことを。宝海4もまたしかなり」と。
 またいはく、「(阿弥陀)仏の威徳広大を聞くがゆゑに、不退転を得るなり」と。以上

 注1 無量寿経のことば。
 注2 以下の5句も無量寿経のことば。浄土で道場樹を見るものは三法忍をうるが、それはこの五種力によると説かれている。
 注3 前にでてきた無諍念王のこと。阿弥陀仏の因位、法蔵菩薩のこと。
 注4 釈迦如来の因位の名前。無諍念王の臣下。

 (現代語訳) また『述文讃』にこうあります。『無量寿経』に「浄土は往き易いのに人がいない。しかし、その国は願いに違うことなく、おのづからひかれていくのです」と説かれていますように、往生の因である本願を聞信すれば、ただちに往生できます。聞信しなければ往生するのは難しい。聞信しさえすれば、違うことなく往生できるのですから、往き易いと言われるのです。
 またこうも言われます。『無量寿経』に「本願力のゆえに」と言われるのは、往生は誓願の力によるということです。「満足願のゆえに」と言われるのは、本願に欠けるところはないということです。「明了願のゆえに」と言われるのは、本願は空しくたてられていないということです。「堅固願のゆえに」と言われるのは、どんな縁も本願を破壊することができないということです。「究竟願のゆえに」と言われるのは、本願はかならず成し遂げられるからです。
 またこうもあります。諸仏が弥陀をほめたたえるのは、われら凡愚が浄土往生の願いをますます強くもつようにと思い、浄土の優れたありようを述べられているのです。
 またこうも言われます。観音・勢至菩薩がこの娑婆で修行されたと言われていますことから、無諍念王すなわち法蔵菩薩もこの娑婆におられたことが分かります。釈迦如来の因位である宝海梵志もまた同じです。
 またこうもあります。弥陀の威徳が広大であることを聞信することで、不退転の位を得るのです。

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往生の因も弥陀から [『教行信証』精読2(その22)]

(5)往生の因も弥陀から

 憬興は『無量寿経』の前半(上巻)で「浄土の因果」が説かれ、後半(下巻)で「往生の因果」が説かれると述べていました。そこで、まず「浄土の因果」についての経文が出され、次いで「往生の因果」に関する『述文讃』の文が引かれます。一切衆生を救うために素晴らしい浄土が設えられても(これが「浄土の因果」です)、そこに衆生が往生できる道筋がつけられませんと(これが「往生の因果」です)、折角ととのえられた浄土も空しいと言わなければなりません。素晴らしい浄土が設えられた因は言うまでもなく弥陀の本願ですが、衆生がそこに往生できる因もまた弥陀の本願であるということ、ここに上げられた三つの文はいずれもそのことを述べています。
 最初の文は、注で言いましたように、親鸞の読み替えがなされています。「(如来は)施等の衆聖の行を備ふるなり」と読むところを、親鸞は「つぶさにひとしく衆生に行を施したまへるなり」と読んでいるのです。如来は浄土を与えてくださるだけではなく、そこに衆生が往生できるための行をも与えてくださるということです。その行とは名号であることは言うまでもありません。憬興はそこまで考えているわけではないでしょうが、親鸞は憬興の文を読みながら第17願のことを頭にうかべていたに違いありません。諸仏が弥陀をほめたたえてその名号を称えることで、弥陀の名号がわれらのもとに届けられ、それを聞くことにより往生できるということです。
 二つ目の文で「仏に値(もうあ)ひ、法を聞きて慶喜す」とあるのがそのことを言っているのですが、それまた「久遠の因によりて」であり、弥陀に遇い、名号を聞くことができるのも、そのようにはからってくださっている弥陀のお蔭であるということです。このように、浄土の因だけでなく、そこに往生できる因もまた弥陀から与えられているのですから、三つ目の文にありますように、「おのづから果を獲ざらんや」ということになります。往生できないはずがありません、ということです。

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本文2 [『教行信証』精読2(その21)]

(4)本文2

 『述文讃』からの引用がつづきます。

 またいはく、「(法蔵菩薩は)福智の二厳(にごん)1成就したまへるがゆへに、つぶさに等しく衆生に行を施したまへるなり2。おのれが所修をもつて衆生を利したまふがゆゑに、功徳成ぜしめたまへり」と。
 またいはく、「久遠の因によりて、仏に値(もうあ)ひ、法を聞きて慶喜(きょうき)すべきがゆゑに」と。
 またいはく、「人聖(しょう)に、国妙(たえ)なり。たれか力を尽さざらん。善をなして生を願ぜよ。善によりてすでに成じたまへる3、おのづから果を獲ざらんや。ゆゑに自然といふ。貴賤を簡(えら)ばず、みな往生を得しむ。かるがゆへに著無上下(ちょむじょうげ、上下なきことを著(あら)わす)といふ。
 
 注1 福徳と智慧のこと。六波羅蜜のうち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定を福徳といい、般若が智慧だから、福智で六波羅蜜を指す。
 注2 普通は「施等の衆聖の行を備ふるなり」と読むが、親鸞は上のように如来がわれらに回向したまうと読む。
 注3 普通は「因の善すでに成ずれば」と読むが、親鸞は如来が因を成ぜられたと読む。

 (現代語訳) また『述文讃』にこうあります。弥陀は福徳と智慧の行を成し遂げられましたから、それをひとしく衆生に念仏の行として与えてくださるのです。自分が修めた行をもって衆生を利益してくださいますから、その功徳は衆生の上に成就するのです。
 またこうあります。遠い昔からの因縁によっていま仏に遇うことができ、法を聞いて喜ぶことができるのです。
 またこうあります。浄土の人たちはみな聖者であり、その国土はうるわしい。力を尽くして往生しようと思わない人がいるでしょうか。善をなし往生を願いなさい。すでに如来の善により往生の因はととのえられていますから、その果が得られないはずがありません。だから自然というのです。貴賤を選ぶことなく、みな往生できます。だから大経に「上下がない」と言われているのです。

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永遠の本願 [『教行信証』精読2(その20)]

(3)永遠の本願

 『悲華経』に出てくる尊音王如来とは、久遠の阿弥陀仏と理解するしかありません。その仏土のすばらしいありようをみせてもらい、無諍念王(すなわち法蔵菩薩)が自分もまたあのような浄土をつくり、一切の衆生を迎えようという誓願をたてた。そしてその誓願が成就して法蔵菩薩は阿弥陀仏となり、その浄土が完成した、と。つまりこういうことです、法蔵菩薩の誓願にはすでにその先例があり、法蔵はそれにならって四十八願をたてたのであると。これは何を意味するかといいますと、弥陀の本願は永遠であるということです。
 物語の筋書きとしては、法蔵菩薩が世自在王仏のもとで修行をしていたとき、一切衆生を救いたいという誓願をたてた。そして、その誓願が成就して阿弥陀仏とその浄土が生まれたということになるわけですが、そうしますと弥陀の本願には時間的にはじまりがあることになります。『無量寿経』において阿難が釈迦に問います、「その仏、成道したまひしよりこのかた、はた、いくばくの時を経たりや」と。そして釈迦が答えます、「成仏よりこのかた、およそ十劫を歴たまへり」と。弥陀の本願には十劫の歴史があるということです。としますと、ここに当然の疑問が生まれます、それ以前には弥陀の本願がなく、したがって救いもなかったということかと。
 それに対する答えはこうです、いや、法蔵の誓願にはすでにその先例があり、法蔵はそれをリレーしたに過ぎないと。かくして弥陀の本願は無窮であるということになります。法蔵は永遠の本願を傍受し、それを時間のなかにもたらしたということ。永遠の本願はそのままではなにものでもなく、誰かがそれを傍受してはじめて時間のなかに姿をあらわすことができるのです。それが弥陀の本願ですから、十劫のむかしにはじまったとしても実は永遠のむかしから存在しているのです。

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浄土の因果と往生の因果 [『教行信証』精読2(その19)]

(2)浄土の因果と往生の因果

 憬興はすでに「教巻」に登場しています。7世紀新羅の法相宗の僧で多くの注釈書を残していますが、『述文讃』は『無量寿経』の注釈書です。最初の一段はその『述文讃』からの引用ですが、つづく『悲華経』と『如来会』の経文は『述文讃』にはなく、親鸞がつけ加えたものです。その理由についてはこのあとすぐ述べます。まずは最初の一段ですが、ここで憬興は『無量寿経』の構成について、その上巻では「如来浄土の因果」が、その下巻では「衆生往生の因果」が説かれていると大づかみに述べています。この捉え方は大事な示唆を与えてくれます。
 浄土教でよくつかわれる「法(教説)と機(衆生)」という概念でいいますと、上巻で「法」が、下巻で「機」が説かれるということです。つまり、上巻においてわれらを救おうという本願とそれが成就してできた浄土のありようが語られ、下巻では救われるわれらがどのようにして往生浄土することができるかが語られているというわけです。浄土の教えといえば、われらを救う法である本願(と浄土)のこととされ、救われるわれら機のことはとかくお留守になりがちですが、『無量寿経』は上巻で法を説くだけでなく、下巻で機について語っているということです。
 さてそのあとに出てくる『悲華経』と『如来会』の経文は「如来浄土の因果」について述べられたものとして親鸞がつけ加えたのでしょう。
 ただ、『悲華経』の内容が分かりにくい。ここに登場する転輪王(理想的な王)は無諍念王(むじょうねんおう)という名でよばれ、親鸞はこれを阿弥陀仏の因位の法蔵菩薩のことと解しています。したがって宝蔵如来とは『無量寿経』でいえば法蔵菩薩の師である世自在王仏に当たるわけです。『無量寿経』では世自在王仏が法蔵菩薩の求めに応じて「広く二百一十億の諸仏の刹土(せつど、国土)の、天・人の善悪と国土の麤妙(そみょう、優劣)を説」くのですが、『悲華経』では宝蔵如来が無諍念王に西方・百千万億の仏土をすぎたところにある尊善無垢という世界とその仏・尊音王如来について説いているのです。その仏と仏土のありようは『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏とその浄土そっくりです。そして、宝蔵如来は無諍念王をほめて、そのありようは「ことごとく大王の所願のごとくして異なけん」と言う。
 一体全体どうなっているのでしょう。

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本文1 [『教行信証』精読2(その18)]

          第2回 自然のひくところ―憬興など

(1)本文1

 法照の『五会法事讃』の次は、憬興(きょうごう)の『無量寿経連義述文讃(れんぎじゅつもんさん)』(略称『述文讃』)からです。

 憬興師(きょうごうし)のいはく、「如来の広説に二つあり。初めには広く如来浄土の因果、すなはち所行・所成(しょぎょう、しょじょう、法蔵菩薩の願行とその成就)を説きたまへり。後には広く衆生往生の因果、すなはち所摂・所益(しょしょう、しょやく、阿弥陀仏が衆生を摂取し利益すること)を顕したまへるなり」と。
 またいはく、「『悲華経』の諸菩薩本授記品にいはく、その時に宝蔵如来(世自在王仏のこと)、転輪王(法蔵菩薩)をほめていはく、よきかなよきかな。乃至 大王、なんぢ西方を見るに百千万億の仏土を過ぎて世界あり、尊善無垢と名づく。かの界に仏まします、尊音王如来と名づく。乃至 いま現在にもろもろの菩薩のために正法を説く。乃至 純一大乗清浄にして雑(まじ)はることなし。そのなかの衆生、等一に化生す。また女人およびその名字なし。かの仏の世界の所有の功徳、清浄の荘厳なり。ことごとく大王の所願のごとくして異なけん。乃至 いまなんぢが字(あざな)を改めて無量清浄とす、と。以上
 『無量寿如来会』にいはく、(法蔵菩薩は)広くかくのごとき大弘誓願を発(おこ)して、みなすでに成就したまへり。世間に希有なり。この願を発しをはりて、実のごとく安住して種々の功徳具足して、威徳広大清浄の仏土を荘厳したまへり」と。以上

 (現代語訳) 憬興師はこう言われています。釈迦如来は『無量寿経』で二つのことを説かれています。その前半では阿弥陀仏が浄土をととのえられた因果、つまり法蔵菩薩の願行が因としてあり、阿弥陀仏の浄土が果として成就したことが説かれ、また後半では衆生が往生することの因果、つまり阿弥陀仏が衆生を摂取して、往生という利益が与えられることが説かれているのですと。
 『悲華経』の諸菩薩本授記品にこうあります。そのとき宝蔵如来が転輪王をほめて、次のように言われます、「何とすばらしいことか、(中略)大王よ、西方を見れば百千万億の仏の国土を過ぎて一つの世界があります。ここを尊善無垢と言い、そこにおわします仏を尊音王如来と言います。(中略)いま多くの菩薩たちのために法を説かれています。そこは純粋な大乗の清浄な世界でまじりけがなく、その中の衆生はみなひとしく化生です。またそこには女人やその名さえありません。その世界の功徳、清らかでうるわしいありようは、ことごとく大王の本願の通りで異なるところがありません。(中略)いまあなたの名をあらためて無量清浄としましょう」と。
 また『無量寿如来会』にはこうあります。このような大弘誓願を起こされ、それがみな成就しています。この世において稀なことです。この願をおこしおわり、願に違わぬよう種々の功徳を具足して、威徳限りない清らかでうるわしい浄土をたてられたのですと。

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