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本文8 [『教行信証』精読2(その48)]

(16)本文8

 次はいずれも元照の弟子である戒度と用欽の文です。

 律宗の戒度 元照の弟子なり のいはく、「仏名はすなはちこれ劫を積んで薫修(くんじゅ)し、その万徳をとる、すべて四字に彰(あらわ)る。このゆゑにこれを称するに益を獲ること、浅きにあらず」と。以上
 律宗の用欽 元照の弟子なり のいはく、「いまもしわが心口をもつて一仏の嘉号を称念すれば、すなはち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなし」と。以上
 またいはく、「一切諸仏、微塵劫をへて実相を了悟して、一切を得ざる(一切に実体があると見ない)がゆゑに、無相の大願をおこして、修するに妙行に住することなし。証するに菩提を得ることなし。住するに国土を荘厳するにあらず。現ずるに神通の神通なきがゆゑに、舌相を大千(三千大千世界)にあまねくして無説の説を示す。ゆゑにこの経(小経)を勧信せしむ。あに心に思ひ、口にはかるべけんや。わたくしにいはく、諸仏の不思議の功徳、須臾(しゅゆ、ただちに)に弥陀の二報(正報の仏身と依報の仏国土)荘厳に収む。持名の行法(称名)は、かの諸仏のなかに、またすべからく弥陀を収むべきなり」と。以上

 (現代語訳) 律宗の僧・戒度はこう言います。弥陀の名号は長い年月の修行の功により薫修されたもので、すべての功徳が阿弥陀仏の四字にあらわれています。だから名号を称えることの利益は浅からぬものがあるのです。
 律宗の僧・用欽はこう言います。いまわたしの心と口で弥陀一仏の名号を称えれば、その中に込められた仏の因位から果位にわたる無量の功徳がわたしの身に具わるのです。
 またこうも言います。一切の諸仏は限りない時間をかけて実相を悟られ、しかしその悟りにとらわれることはありません。そこから大願をおこし、修行をしてもそれに執着することなく、悟ってもそれにとらわれることなく、うるわしい浄土をととのえてもそれにとらわれません。またその神通もとらわれのない神通ですから、世界の隅々まで広く法を説いてくださるのです。そうしてこの阿弥陀経を信じるよう勧めてくださいます。これはこころに思うこともことばにすることもできません。わたしの思いますに、諸仏の不思議の功徳はみなそのまま弥陀とその浄土におさまります。また念仏の行法においては諸仏のなかに弥陀がおさまり、諸仏と弥陀とはひとつです。

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漸と頓 [『教行信証』精読2(その47)]

(15)漸と頓

 ここで元照は宋代の天台宗の僧・慈雲法師を古賢と尊び、その文を引いています。この文で目を引くのは「捷」、「速」、「即」、「頓」ということばで、みな「すみやか」という意味です。念仏の教えは「すみやか」に証果に至るということ、これが強調されているのです。親鸞は聖道門と浄土門を対比するとき「漸と頓」という対をよく持ち出します。聖道門は漸、つまり「しだいしだいに」であるの対して、浄土門は頓、つまり「にわかに」であると言い、さらにはそれに「竪と横」という対を重ねます。聖道門は「たたさま」に一歩一歩進むのに対して、浄土門は「よこさま」にひとっ跳びというイメージです。これらのコントラストの意味することを考えておきましょう。
 それは、聖道門は真如(宇宙の真理)を悟ろうとするのに対して、浄土門は本願(宇宙の願い)に気づくことに尽きると言えます。
 真如を悟るためには、それについて説かれた経を読み、そこから目指す真如をつかみ取らなければなりませんが、それは一朝一夕にできることではなく、修道の階梯を一つひとつ昇っていくことが求められます。これが「たたさま(竪)」の道であり、それはおのずから「しだいしだいに(漸)」とならざるをえません。これは学問においても芸能においても同じですからイメージしやすく、分かりやすい。一方、本願に気づくことはと言いますと、こちらから気づこうとして気づけるものではありません。あるとき、ふと気づいているのです。これまでしばしば使ってきた言い回しをもちいれば、こちらから何かをゲットするのではなく(これが真如を悟ることです)、むこうから何かにゲットされるのです。
 気づいたときにはもうゲットされているのですから、これは「にわかに(頓)」であり、「よこさま(横)」にひとっ跳びです。これを「たたさま」に一歩一歩前進していくことに比べれば、何と易しいことよと思いますが、それはしかしゲットされた後からみた思いであり、ゲットされる因縁がそろわない限り、どれほど焦っても気づきは起こらないのですから(そしてその因縁をみずから用意することは不可能ですから)、これ以上難しいことはないとも言えます。「難の中の難、これに過ぎたるはなし(難中之難無過斯)」です。

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本文7 [『教行信証』精読2(その46)]

(14)本文7

 次は元照の『観経義疏』からの引用です。

 「慈雲法師 天竺寺の遵式(じゅんしき) のいはく、ただ安養の浄業捷真(せっしん、近道)なり、修すべし。もし四衆(比丘・比丘尼・優婆塞(在家の男性)・優婆夷(在家の女性))ありて、また速やかに無明を破し、永く五逆・十悪重軽等の罪を滅せんと欲はば、まさにこの法を修すべし。大小の戒体(大乗・小乗の戒律)、遠くまた清浄なることをえしめ、念仏三昧を得しめ、菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲はば、まさにこの法を学すべし。臨終にもろもろの怖畏(ふい)を離れしめ、身心安快(あんけ)にして衆聖現前し、授手接引せらるることを得、はじめて塵労(煩悩)を離れて、すなはち不退に至り、長劫をへず、すなはち無生を得んと欲はば、まさにこの法等を学すべしと。古賢(慈雲のこと)の法語によく従ふことなからんや。以上五門、綱要を略標す。自余はつくさず。くはしく釈文にあり。開元の蔵録(開元釈教録のことで、唐代に成立した仏教典籍の目録)を案ずるに、この経(観経)におほよそ両訳あり。前本はすでに亡じぬ。いまの本はすなはち畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)の訳なり。僧伝にいはく、畺良耶舎ここには時称といふ。宋の元嘉のはじめに京邑(きょうおう、都)にはじめたり(原本では「京邑にいたる」)。文帝のとき」と。
 慈雲の讃にいはく、「了義のなかの了義なり。円頓のなかの円頓なり」と。以上
 大智 元照律師なり 唱へていはく、「円頓一乗なり。純一にして雑なし」と。以上

 (現代語訳) 慈雲法師はこう言っています。安養浄土への往生を説く教行がもっとも近道ですから、これを修すべきです。出家も在家も、すみやかに心の無明を破り、五逆・十悪など、これまでの重軽の罪を滅したいと思えば、まさにこの念仏の法門を修すべきです。大乗・小乗の戒律をたもち、念仏三昧を得て、菩薩のさまざまな行を修めようと思うなら、まさにこの法を学ぶべきです。臨終にさまざまな怖れをはなれ、身も心も安らかになり、多くの仏菩薩に手を取られて、すぐに煩悩をはなれて不退に至り、ただちに無生の悟りを得ようと思うなら、この法を学ぶべきです、と。いにしえの聖賢のことばに従うべきです。以上、五門に分けて観経の要点を述べてきました。他の細かいことは、下の文義を釈するところで述べましょう。『開元釈教録』によりますと、観経には二訳あり、前の訳はすでになくなっていて、いまの本は畺良耶舎の訳です。『高僧伝』によりますと、畺良耶舎は中国では時称といい、劉宋の元嘉のはじめに都に来られました。文帝のときです。
 慈雲法師は念仏の法門をほめたたえて、真理をもっとも明らかに説いたものであり、完全な悟りにすみやかに至ることのできる教えであると言われています。
 大智律師・元照はこう言われます、念仏の教えは完全な悟りにすみやかに至ることができるただひとつの乗り物であり、純粋でまじりけがないと。

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臨終まつことなし [『教行信証』精読2(その45)]

(13)臨終まつことなし

 臨終に「苦に逼られて」正念を失うのではないかという不安に二種類あることが分かります。ひとつは「まだ死にとうないのに、死ななければならない」という苦しみに耐えられないのではないかという不安で、これは分かりやすい。もうひとつは臨終に苦に逼られ正念を失って念仏できなくなると、肝心の往生ができなくなってしまうという不安で、これは伝統的な浄土教特有のものです。前者は臨終に正念を失うことそのものに対する不安ですが、後者は正念を失うことで往生にさしつかえるのではという不安です。
 さて、弥陀の本願に遇うことができ、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることに気づかせてもらえたとき、この二種類の不安はどうなるでしょう。元照のことばでは「さきに仏を誦してつみ滅し、さはりのぞこり、浄業うちに薫じ、慈光ほかに摂して」いるとき、これらの不安はなくなるのでしょうか。まず臨終に「死にたくない」という思いで正気を失ってしまうのではないかという不安ですが、「そんなものはすっきりなくなる」と言っていいのでしょうか。
良寛なら「死ぬる時節には死ぬがよく候ふ」と言うのでしょうが、親鸞は少し違うような気がします。「いささか所労(病気)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」(『歎異抄』第9章)と言う人ですから、いよいよ死が迫ったときにも「まだ死にとうない」という気持ちは残るのではないでしょうか。しかし「なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはる」ことになると言います。これが人間の自然な姿であるように思えます。
 問題は臨終に正念を失えば往生にさしつかえるのではないかという不安です。「まだ死にとうない」などと生に執着しているようでは往生できないのでしょうか。この不安のもとには往生浄土はいのち終わってのちという前提があります。だからこそ今生と来生の接点である臨終のありようが一大関心事となるのですが、親鸞はその前提をとりません。「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(『末燈鈔』第1通)です。もう摂取不捨されているのですから(もう往生は始まっているのですから)、いまさら来生の往生を心配することはありません。

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臨終の正念 [『教行信証』精読2(その44)]

(12)臨終の正念

 生老病死の四苦のうち、生・老・病苦は何の説明もいりません(生苦とは生きる苦しみではなく、この世に生まれてくる苦しみです、念のため)、よく了解できます。しかし死苦とは何か、これは分かったようでよく分からない。死そのものは経験できませんから、死の苦しみというのは、死を目の前にしたときの苦しみ、つまりは臨終の苦しみでしょうが、さてしかし臨終において何が苦しいのか。多くの場合、病をかかえて死にますから、病の所為で苦しいというのは分かりますが、それはしかし病苦でしょう。それとは別に死苦というものがあるはずですが、それはいったい何か。
 「まだ死にとうない」という思い、これです。まだ死にとうないのに、死ななければならない、これが苦しいのです。
 今生と別れなければならない苦しみのなかで、「あるひは悪念をおこし、あるひは邪見をおこし、あるひは繫恋を生じ、あるひは猖狂悪相を発」して、正気を失ってしまうのではないかという不安があります。今生と別れなければならない苦しみは臨終になってはじめて味わうわけではありません。今生と別れるのはまだずっと先と思っているときから、いずれそのときがくると思うだけで、その苦しさは十分了解できます。だからこそ、実際にそのときになったら苦しさのあまり正気を失うのではないかと心配するのです。
 ここまではごく当たり前のことですが、伝統的な浄土の教えで臨終の正念が特筆大書されるのはこれだけにとどまりません。臨終で正念を失うと往生浄土ができなくなるという不安があるのです。この不安の根拠は『観経』下下品の段にあります。「この人(下下品の悪人)、苦に逼(せま)られて、仏を念ずるに遑(いとま)あらず。善友、告げていう、『汝よ、もし念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏を称うべし』と。かくのごとく、至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して、南無阿弥陀仏を称えしむ。…一念のあいだのごとくに、すなわち極楽浄土に往生することえ、云々」。
 もし臨終に正念を失い念仏できないようなことになれば、往生できなくなってしまう。これでは元も子もありませんから、そんなことにならないように日頃から気をつけて念仏しなければならないと教えられるのです。

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本文6 [『教行信証』精読2(その43)]

(11)本文6

 さらに『阿弥陀経義疏』からの引用がつづきます。

 またいはく、「正念のなかに、凡そ人の臨終は識神(しきじん、こころ)に主なし。善悪の業種、発現せざることなし。あるいは悪念を起し、あるいは邪見を起し、あるいは繫恋(けれん、愛着)を生じ、あるひは猖狂(しょうきょう)悪相を発せん。もつぱらみな顛倒の因と名づくるにあらずや。さきに仏を誦して罪滅し、障除こり、浄業うちに薫じ、慈光ほかに摂して、苦をまぬかれ楽を得ること、一刹那のあひだなり。下の文に生をすすむ、その利ここにあり」と。以上

 (現代語訳) またこう言われます。臨終の正念についてですが、およそ臨終において人のこころは主のいない空き家のようなもので、これまでの善悪の業の結果が現れざるをえません。悪い思いを抱いたり、邪な考えをもったり、あるいは愛着の思いに苦しんだり、さらには狂ったような悪相を示すこともあるでしょう。これらはみな心が顚倒してしまっているということです。しかし前々から名号を称えて罪障に煩わされなくなっていますと、こころの内は名号の功徳で温もり、外からは弥陀の光明に照らされていますから、一刹那の間に苦をまぬかれ楽を得ることができるのです。阿弥陀経の下の文に浄土往生を勧めているのは、この利益があるからです。

 この文は臨終の正念について述べています。名号を「みみにきき、くちに誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入」して「ながく仏種」となるのでした。そしてそのことが臨終に際して本領を発揮します。もはや「悪念をおこし、あるひは邪見をおこし、あるひは繫恋を生じ、あるひは猖狂悪相を発せしむ」ことはなくなるというのです。臨終に正念を失うのではないかというのは昔も今も変わらず大きな不安でしょう。それまでは正気を保って生きてきたのに、死を前にして正気を失ってしまい、見苦しい姿を見せてしまうのではないかと心配になる。しかし、名号を「みみにきき、くちに誦する」ことで、その心配はなくなるというのです。

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本文5 [『教行信証』精読2(その42)]

(10)本文5

 次も『阿弥陀経義疏』からですが、短いながら弥陀の名号がずしりと届く現場をよく伝えてくれる文です。

 またいはく、「いはんやわが弥陀は名をもつて物(衆生)を接したまふ。ここをもつて耳に聞き、口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入(らんにゅう)す。ながく仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証(ぎゃくしょう)す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多善根なり」と。以上

 (現代語訳) またこう言われます。ましてわが弥陀は名号をもってわれらを摂取してくださいます。ですから、名号を耳に聞き、口に称えることで、名号におさめられている無上の功徳が、われらをつかみとり、こころのなかに流れ込みます。そして長く成仏の種となり、これまで積もりに積もった重罪をただちにとりのぞいてくれて、この上ない菩提をえることができるのです。名号の功徳は少ないどころか、まことに多いと言わなければなりません。

 この短い文のなかで、名号を「みみにきき、くちに誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す」という言い回しが見事です。攬入とは聞きなれないことばですが、攬とは「つかむ」という意味で(明治憲法に「天皇は統治権を総攬す」とあります)、ふと聞こえてきた名号に身も心も鷲づかみにされる様子を表現しています。そして名号はわれらを鷲づかみにするだけでなく、こころの中に入ってきて、内側からあたため続けてくれます。その温みはこころのなかに氷結している重罪を解かしてくれ、「かならず煩悩のこほりとけ、すなはち菩提のみづとなる」(『高僧和讃』「曇鸞讃」)のです。だから「こほりおほきにみづおほし、さはりおほきに徳おほし」(同)ということになります。
 まことに名号は「少善根にあらず、これ多善根なり」と言わなければなりません。

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幻影と物語 [『教行信証』精読2(その41)]

(9)幻影と物語

 むかし法蔵菩薩という人がいて、一切衆生を救おうという壮大な誓願をたてた、そしてそれが成就したことで阿弥陀仏とその浄土が成就したという話だが、そんなことが現実にあったなどとどうして信じられようか。それは誰かの頭に魔が差し、壮大な幻影を造りだしたものに他ならないと言う人がいても何の不思議もありません。実際、これは物語なのですから。
 さてここで大事なことは、幻影と物語をきっちり区別することです。
 幻影は、それを見ている人にとっては現実そのもので、ありもしないことが現にあると見ているのです。しかし物語は、それを語る人にとっても物語であるのは当然であり、ありもしないことを語っているとはっきり自覚しています。さて、幻影を見ている人が、幻影であるにもかかわらず、それを現実として語るのは仕方ないことですが、これは物語だと自覚した上で物語を語るのはどうしてでしょう。おとぎ話や小説の場合はその理由がはっきりしています。フィクションを楽しむためです。人間には現実にはないことを想像し物語を作って楽しむという特殊な能力があります。それはいいとしまして、問題は法蔵菩薩の物語です。これは娯楽でないことは明らかですが、ではいったい何か。
 物語としてしか語ることができない現実があるということです。「こんにちは」という声を通して「帰っておいで」が聞こえたことは幻聴ではありません、紛れもない事実です。ただ、それを人に語ろうとするとき、どうしても物語的にならざるをえないのです。「宇宙からの暗号を傍受する」という言い方をしたこともありますが、すでにどこかSFめいています。現実ばなれした印象を与えてしまうかもしれませんが、しかしだからといって幻聴などではなく、ずしりと重い現実です。
 「宇宙からの暗号」を壮大な物語にしたものが浄土の経典に説かれていて、宇宙にあたるのが阿弥陀仏であり、暗号が名号です。

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本文4 [『教行信証』精読2(その40)]

(8)本文4

 元照の『観経義疏』につづいて、同じく元照『阿弥陀経義疏』からの引用です。

 またいはく、「一乗の極唱(ごくしょう、至極の教え)、終帰(最後のよりどころ)をことごとく楽邦(浄土)を指す。万行の円修、最勝をひとり果号(名号)にゆずる。まことにもつて因より願を建つ。志をとり行を窮め、塵點劫(じんてんごう)をへて済衆の仁(衆生済度の慈悲心)をいだけり。芥子(けし)の地も捨身の処にあらざることなし。悲智六度(六波羅蜜のうち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定の慈悲と、最後の智慧とに分けて悲智六度という)、摂化してもつてのこすことなし。内外の両財(自分の身を内財、持ち物を外財とする)、求むるに随うてかならず応ず。機と縁と熟し、行満じ功なり、一時にまどかに三身(法身・報身・応身)を証す。万徳すべて四字(阿弥陀仏の四字)にあらはる」と。以上

 (現代語訳) 一乗の至極の教え(法華経や華厳経の教え)も、最終的にはみな浄土の教えを指し示しています。また、どんな行も、弥陀の名号にまさるものはありません。阿弥陀仏は因位において願をたて、志をいだいて行をきわめ、はかりしれない時間をへて衆生を救おうという心を持ち続けられました。そして芥子粒ほどの地でも自らの身を捨てられなかったところはありません。六波羅蜜の行により、衆生をすべておさめ取られ、持てるものはみな求めに応じてお与えくださいます。そうして機が熟し縁が熟して、行が満ち功徳が成就し、一時に法・報・応の三身をまどかに得られました。かくしてすべての功徳は阿弥陀仏の四字に現れているのです。

 先ほどのつづきで他力と魔障についてもう少し考えたいと思います。この文では、法蔵菩薩が五劫の思惟と兆歳永劫の修行により、その誓願が成就して阿弥陀仏となられたと語られます。だから弥陀の名号にすべての功徳がおさめられているのだと。ここに浄土の教えの要諦が語られていますが、これはしかし見方によってはすべて魔のなせるわざであると言えなくもありません。

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幻覚か [『教行信証』精読2(その39)]

(7)幻覚か

 本文2において魔障に悩まされるのは自力の三昧行においてであると述べたあと、ここで念仏三昧は他力によるから魔障から護られると説いています。自力と他力の違いで魔障のあるなしを論じているのですが、さてしかしこれで先の問いに答えたことになるでしょうか。臨終の来迎というのは魔の仕業ではないのかという問いは、つまるところ、他力という「不可思議功徳のちから」そのものが魔のもたらしているものではないかという疑問でしょう。としますと他力だから魔障は生じないというだけでは疑問に答えたことになりません。他力とは何であるかをきちんと言わなければ、他力は魔の仕業ではないことの説明にはなりません。
 そこでぼくを立ち往生させた問いに戻ります。「こんにちは」の声に南無阿弥陀仏を聞くのは幻聴(魔の仕業)ではないかという問いでした。
 ぼくが研修会で述べたのは、ふと南無阿弥陀仏の声が聞こえることが親鸞にとっての信心であり(聞即信)、それがそのまま往生すなわち救いに他ならないということです(信即生)。ですから、もし南無阿弥陀仏の声が聞こえるのが魔の所為だとしますと、親鸞の他力思想が根底から崩れると言わなければなりません。さて、「こんにちは」が文字通り「南無阿弥陀仏」と聞こえたとしたら、これは紛れもなく幻聴でしょう。苛酷な修行で神経が極度に疲労していたり、あるいはこころの病からいろいろな幻聴が聞こえるのは珍しいことではありません。
 しかしぼくの場合、「こんにちは」は「こんにちは」と聞こえたのです。ただ「こんにちは」の奥から「南無阿弥陀仏」の声が聞こえた。ぼく流に平たく言い換えますと「帰っておいで」という声です。「こんにちは」という挨拶のことばを通して「帰っておいで」という声が聞こえたということです。むこうからやってきた「こんにちは」という暗号を解読して「帰っておいで」というメッセージを受け取ったと言ってもいい。いってみれば「いのちそのもの」からメッセージを受け取ったのです。「いのちそのもの」から暗号を傍受すること、これを幻聴と言えるでしょうか。

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