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宗教の怖さ、あるいは統一教会について [親鸞の和讃に親しむ(番外編)]

◎宗教の怖さ、あるいは統一教会について

安倍元首相が銃撃されたことに関連して、このところ統一教会についての報道がつづいています。何より気になるのは「やはり宗教は怖い」という風潮が広がっていることです。そのことについて一言しておかねばならないと思い、急遽、番外編を出すことにしました。

あの事件の犯人の母親のことを考えてみたいと思います。彼女のこころの動きと行動について、マインドコントロールの怖さというひと言で片づけられてしまいますが、マインドコントロ-ルにかかってしまうときの心の動きにもっと繊細に思いを致すべきだと思うのです。彼女の場合、夫の自殺、そして長男の病気(癌)といった不幸が重なったときに、統一教会が仕掛けたマインドコントロールの餌食となってしまいました。これはカルト教団の典型的な勧誘パターンと言えますが、こんな問いかけからはじまります、「どうしてあなたにこんな不幸が次々と起こるのか、その背景に何があるのかを考えなければなりません」と。

この問いが当人のこころに食い込むのは、当人自身がすでにこの問いに苦しんでいるからです、「どうして自分がこんな不幸な目に遭うのだろう」と。この問いは自分の不幸と周りの人たちの幸せを比較することの上に成り立っています。われらは自他を見比べ、他に見劣りしないようにしたいという欲求をもって生きていますが、そこから、ひどい不幸に襲われたときに「どうして自分が」という問いに苦しめられることになります。この問いは自分は幸せでなければならず、そうでないのは何かがおかしいという前提に立っています。「こんなはずじゃない」という思いがありますから、目の前にある現実を受け入れることができないのです。

われらを苦しめる元凶の一つである劣等感について考えてみましょう。「自分はどうしてこうも(顔が悪い、頭が悪い、性格が悪い、もてないetc.)」という歎きの裏には、「こんなはずじゃない」、「これは何かの間違いだ」という思いが貼りついています。つまり「自分はどうしてこうも」は「自分はほんとうはもっと」と裏腹だということです。そして「自分はほんとうはもっと」というのは「自分は彼らよりももっと」という優越感に他なりません。劣等感と優越感は一卵性双生児です。


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大聖易往とときたまふ [親鸞の和讃に親しむ(その30)]

(10)大聖易往とときたまふ

大聖易往(いおう)とときたまふ 浄土をうたがふ衆生をば 無眼人とぞなづけたる 無耳人(むににん)とぞのべたまふ(第90首)

往き易くして人はなし、釈迦はうたがうものたちを、眼も耳もないものたちと、名づけて信を勧めたり

易往にして難信、これが浄土です。なぜ易往か。ここは穢土でありながら、そのままで同時にもう浄土であるからです。もうすでに浄土にいるのですから(もうすでに救われているのですから)、これ以上に易しいことはありません。ではなぜ難信か。この穢土がそのままで浄土である(生死がそのままで涅槃である)などということは普通の分別ではどうにも受け入れがたいからです。こことは別のどこかに浄土があるというのなら、まだしも信じられるかもしれませんが、ここがもうすでに浄土であるなどとどうして信じられましょうか。これが「浄土をうたがふ衆生」です。なぜ疑うのかといいますと、気づきがないからです。もうすでに「無量のひかり」が届いているのに気づきさえすれば、ここが穢土であるままで浄土であることが身に沁みるのに、その「無量のひかり」に気づいていないからです。もうすでに「いつでも帰っておいで(南無阿弥陀仏)」の声が届いているのに、それが聞こえないからです。だから「無眼人」と言われ、「無耳人」と言われるのです。気づきの眼と耳がないのです。

「無眼人」、「無耳人」ということばは『目連所問経』に出てきますが、これを生まれながらに気づきの目と耳をもっていない人と受けとるべきではないでしょう。世の中に気づきの目と耳をもっている人ともっていない人の二種類がいるのではありません。光明・名号の気づきがあるかないかは、その縁があるかないかということです。光明・名号はわれらのもとにすでに来ているのですが、それに気づく縁があるのかどうか。それは、われらはみな一様に悪人ですが、そのことに気づくかどうかもその縁があるかどうかによるのと同じことです。そして縁があるかどうかは事後的にしか分かりません。その縁に遇ってはじめて「ああ、そういう縁だったか」と分かるのです。光明・名号に気づく縁に遇ってはじめて「ああ、気づく縁があったのか」と思い至るのです。

(第3回 完)


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久遠実成阿弥陀仏 [親鸞の和讃に親しむ(その29)]

(9)久遠実成阿弥陀仏(これより諸経讃)

久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 伽耶城(がやじょう、ブッダガヤ)には応現する(第88首)

久遠のほとけ阿弥陀仏、五濁の凡愚あわれんで、釈迦牟尼仏のすがたとり、ブッダガヤにはあらわれる

これまで浄土三部経にもとづいて詠われてきましたが、ここからそれ以外の経典が取り上げられます。この和讃は『法華経』がもとになります。親鸞は天台宗の本山、比叡山延暦寺で20年も学んだ人であるにもかかわらず、どういうわけか『法華経』に言及することはほとんどありませんが、これはその希有な例の一つです。『法華経』の「如来寿量品」の有名な一節にこうあります、「一切世間の天・人及び阿修羅は、皆、今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮(カピラ城)を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂(おも)えり。然るに善男子よ、われは実に成仏してよりこの方、無量無辺百千万億那由他劫なり」と。わたし釈迦如来はカピラ城に生まれ、伽耶城にほど近く、菩提樹の下で仏となったと言われているが、実を言うと久遠のむかしから仏であるというのです。

さて久遠の仏といいますと、第55首で詠われていましたように、それは「無量(アミタ)のいのち」である阿弥陀仏ですから、釈迦如来とは実は阿弥陀仏に他ならないということになります。「無量」の阿弥陀仏が、あるとき「有量」の釈迦如来としてブッダガヤにその姿を現した(応現した)ということです。すぐ前の和讃(第86首)において、弥陀の本願は永遠なるもの(「いつでもどこでも」あるもの)であるにもかかわらず、それは「いまここ」で遇うしかないことを見ましたが、「無量」と「有量」とについても同様のことが言えます。「永遠なるもの」そのものに遇うことができないように、「無量なるもの」そのものにもまた遇うことはできず、それは「有量なるもの」を通して遇うしかないのです。それは釈迦如来だけではありません、「十方世界の無量の諸仏」もまた阿弥陀仏がそれぞれに応現した姿であり、それらの恒沙の諸仏を通してはじめて阿弥陀仏に遇うことができるのです。


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五濁悪時悪世界 [親鸞の和讃に親しむ(その28)]

(8)五濁悪時悪世界

五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には 弥陀の名号あたへてぞ 恒沙(ごうじゃ)の諸仏すすめたる(第86首)

濁り果てたる世の中の、悪と邪見のものどもに、弥陀の名号くすりとて、仏たちみな勧めたり

われらに弥陀の名号を与えてくださるのは「恒沙の諸仏」であることが詠われます。そのもとは第17の願にあります、「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」と。十方の諸仏がことごとく「わが名を称する」のは、たんに阿弥陀仏を「咨嗟(ほめたたえる)」することではなく、一切の有情に漏れなく弥陀の名号を届けるためであるということ、ここに第17願の本質があります。その本願があるからこそ、『小経』において「恒沙の諸仏」が「弥陀の名号すすめたる」と、この和讃は詠っているのです。弥陀の本願は一切の衆生の往生(救い)を願いますが、その願いが「いつでも帰っておいで」という「よびごえ」になったものが「南無阿弥陀仏」すなわち名号です。この名号を一切の衆生に届けるのを弥陀は恒沙の諸仏に委ねたということです。

本願は弥陀から直に送られてくるのではなく、恒沙の諸仏を通して届けられるということ、ここには深い意味が潜んでいます。

本願は永遠なるものでしょう。つまりいつかどこかで始まり、またいつかどこかで終わるものではなく、いつでもどこでもあります。そうでなければ、一切有情の救いは名ばかりと言わなければなりません。さてしかし「いつでもどこでも」ある本願に遇うことができるのは「いまここ」でしかありません。「いつでもどこでも」ある本願は、それに遇うことができた「いまここ」にしかないのです。「いまここ」で本願に遇うことがなければ、本願などどこにもありません。そして「いまここ」で本願に遇うということは、恒沙の諸仏のどなたかから本願の名号を届けられるということです。かくして本願は永遠の弥陀から直に送られてくるのではなく、恒沙の諸仏の中のお一人から名号として届けられるということになります。


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十方微塵世界の [親鸞の和讃に親しむ(その27)]

(7)十方微塵世界の(これより弥陀経讃)

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(第82首)

どんな世界の果てまでも、念仏の人見つけては、逃げても追って摂取する。だから阿弥陀とお呼びする

ここで阿弥陀とは「アミターバ」すなわち「無量のひかり」ですが、この和讃を読むとき、いつも心に引っかかるのが「念仏の衆生」と「無量のひかり」の関係です。つまり一方では、弥陀の光明は「無量のひかり」ですから「念仏の衆生」だけでなく「一切の衆生」を照らしているはずですが、しかし同時に「無量のひかり」に「摂取不捨」されるのは「念仏の衆生」だけであるということ、これをどう理解するかということです。「無量のひかり」に照らされることと、それに「摂取不捨」されることの関係です。答えは『歎異抄』第1章が与えてくれます、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつ」人、すなわち「念仏の衆生」とは「無量のひかり」に気づいた人です。「大悲ものうきことなくつねにわれを照らしたまへり(大悲無倦常照我)」(「正信偈」)と気づいた人が「すなはち摂取不捨の利益にあづかる」のです。「無量のひかり」は「ものうきことなくつねにわれを照らしたまふ」のですが、それに気づかなければどこにも存在しません。それに気づいてはじめて「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」のです。万有引力は、それに気づこうが気づくまいがわれらにはたらいていますが(だからこそ、われらは地球から落っこちることがありません)、弥陀の本願力というものは、それに気づかなければはたらかないのです。なぜか。

弥陀の本願とは「いのち、みな生きらるべし」という願いですが、誰かにかける願いというものは、それがどれほど強いものであっても、その誰かの心に届かなければ何の力にもならないのです。しかし誰かがそれに気づいたとき、それはただちに想像を超える大きな力を発揮します。


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定散諸機各別の [親鸞の和讃に親しむ(その26)]

(6)定散諸機各別の

定散諸機(じょうさんしょき)各別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入すべしとねがふべし(第81首)

定散諸機のそれぞれは、自力の心をひるがえし、如来回向の信心に、目覚めんことを願うべし

ここはことばの説明が必要でしょう。「定散諸機各別の」とは「定善と散善を修める人たちそれぞれが」という意味ですが、定善とは「定心の善」で、雑念を払い心を集中して仏とその浄土を一心に念ずることをさし,散善とは「散心の善」で、普段の散り乱れた心のままで悪を捨て善をなすことをさします。このことばは善導が『観経』に説かれる十六の観法の前十三観を定善、あとの三観を散善としたことに由来します。次に「自力の三心」といいますのは、これまた『観経』に説かれる至誠心・深心・回向発願心の三心を、親鸞が自力の心と見ているということです。したがってこの和讃は、定善の人も散善の人も、この自力の三心により浄土へ往生しようとしているが、それをひるがえし、他力の信心(「如来利他」とは他力ということに他なりません)に通入することではじめて往生がかなうのであると詠っているのです。

第61首のところで第19願が方便の願であることを見ましたが、親鸞は『観経』をこの願の立場で説かれた方便の経典とするのです。

さてここで「自力の三心」を〈ひるがへし〉「他力の信心」に〈通入すべし〉と言われていることに注目したいと思います。この言い回しをそのままに受け取りますと、われらは自力をひるがえして他力に転入することができるような印象を受けますが、自力と他力はそのような関係にはなっていません。自力ではダメだから、他力でいこう、と思って他力を選ぶなどというわけにはいかないのです。そもそも方便と真実の区別は、真実に遇うことができてはじめて明らかになることで、真実に気づきませんと、自分は方便のなかにいるなどと思うことはなく、これが唯一の道だと信じています。ところがその道を歩む中でふと、ああ、これは方便であって真実ではないぞと気づかされるのです。ですから方便を〈ひるがえして〉真実に入るのではありません、あるとき方便がおのずから〈ひるがえって〉、知らぬ間に真実に入っていることに気づくのです。


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大聖おのおのもろともに [親鸞の和讃に親しむ(その25)]

(5)大聖おのおのもろともに

大聖おのおのもろともに 凡愚底下(ぼんぐていげ)のつみびとを 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり(第79首)

これらの人はみな菩薩、愚かなわれらつみびとを、一人たりとももらさずに、本願海に引き入れる

普通、大聖といいますと釈迦如来のことですが、ここでは王舎城の悲劇の主役である阿闍世や提婆達多たちを指しています。親鸞はこのような十悪五逆の罪人を浄土の教えを伝えるために仮に姿をとった聖人たちであると見るのです。『教行信証』の序に「浄邦縁熟して、調達(じょうだつ、提婆達多のこと)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰(あらわ)れて、釈迦、韋提(韋提希夫人)をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁(ごんけのにん、仮にあらわれたすがた)斉しく苦悩の群萠を救済(くさい)し、世雄(せおう、仏)の悲正しく逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい、五逆と誹謗正法と一闡提)を恵まんと欲(おぼ)す」とありますように、阿闍世王や提婆達多らの逆謗闡提を「権化の仁」とするのです。

われらは世の逆悪非道な人たちを「鬼のようだ」と見てしまいますが、その人たちのありようこそ「己のほんとうの姿」だと見ることができるかどうか。普段は取り繕って生きていますが、われらの偽らざる姿はまさに彼らそのものではないかと思えるかどうか。そのように思えたとき、世の逆悪非道な人たちはわれらのほんとうの姿を教えてくれる「権化の仁」となっています。そしてこの「己の悪の気づき」こそ「逆悪もらさぬ誓願の気づき」に他なりません。自分のことを棚に上げて世の悪人たちを「鬼のようなヤツだ」と思っている限り、弥陀の本願が開かれることはありません。

しかし「悪の気づき」が「本願の気づき」であるとはどういうことか、どうしてそんなことが言えるのかという疑問が生まれるかもしれません。「いや、本願は悪人のためにあるのだから」と答えたとしても、どうして悪人のためであって善人のためではないのかという問いが生まれることでしょう。そこでこう答えましょう、「本願は一切の有情を平等に救おうという願いだが、一切の有情は悪人であることにおいて平等であるから」と。悪において平等であるという気づきが、本願は救いにおいて平等であるという気づきなのです。


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恩徳広大釈迦如来 [親鸞の和讃に親しむ(その24)]

(4)恩徳広大釈迦如来(これより観経讃)

恩徳広大釈迦如来 韋提夫人(いだいぶにん、韋提希)に勅してぞ 光台現国(こうだいげんごく)のそのなかに 安養世界をえらばしむ(第73首)

釈迦のご恩ははてもなく、韋提夫人に勅命し、ひかりの台にあらわして、弥陀の浄土をえらばせる

『観経』の序分において、王舎城の悲劇のなかで釈迦が韋提希に阿弥陀仏とその浄土を説くに至る経緯を詠っています。わが子・阿闍世が父を殺し、自身もまた幽閉されるという逆境を「世尊、われむかし、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる」と嘆き、「わがために憂悩なき処を説きたまへ」と願う韋提希に、釈迦は眉間より金色の光を放ち、その光の台に十方諸仏の浄土を映し出します。韋提希はそのなかから阿弥陀仏の浄土を選ぶのです。釈迦は微笑み、「なんぢいま、知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」と説きはじめます。

『大経』の序分と比べますと(第51首参照)、ドラマチックな場面設定がいやがうえにも印象に残ります。

ここで「悟りの仏教」と「救いの仏教」を対比してみようと思います。仏教はもともと悟りをめざして厳しい戒律のもとで修行に励む出家僧と、彼らを経済的に支える在家の人たちによって構成され、出家僧は社会の中でエリート的な存在であると言えるでしょう。それは大乗仏教においても同様であり、出家は自らのためだけでなく在家のために悟りを得ようとする指導者的な位置にあります。これが「悟りの仏教」(聖道門)で、あくまでも主役は出家僧ですが、「救いの仏教」(浄土門)となりますと、そこに大きな変化が起こります。

もう僧も俗もなく、みな一様に如来の救いに与るという構図になるのです。「悟り」は「みづから得る」ものですが、「救い」は「むこうから与えられる」ものですから、「救い」にはいかなる差もなく、戒律を守る出家僧も煩悩にまみれた凡夫も等しく如来の救いに与ることになります。いやむしろみずからの煩悩に悩み苦しむ凡夫こそ如来の救いの対象として浮上してくるのです。ここに登場する韋提希夫人もそうした凡夫として、釈迦・弥陀二尊の救いに与ることになります。


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念仏成仏これ真宗 [親鸞の和讃に親しむ(その23)]

(3)念仏成仏これ真宗

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 権実真仮(ごんじつしんけ)をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ(第71首)

浄土門こそ真実で、聖道門は仮門なり。真仮の区別できずして、他力の浄土しりえない

他力の念仏が真で、自力の諸行は仮であると詠われます。真に対しては偽とするのが普通でしょうが、親鸞は他力と自力は「真と仮(化)」の関係だとします。もし自力が偽でしたら、それはただちに捨てなければなりませんが、残念ながらわれらは自力を捨てることはできません。われらが生きることの一切合切が自力です。他人の力に頼るとしても(いや、他人の力に頼らなければ生きていけませんが)、頼ることそれ自体が自力です。たとえばALS(筋委縮性側索硬化症)の患者は生きるすべてを他人に頼らなければなりませんが、他人を頼って生きることができるのもその患者の力です(『こんな夜更けにバナナかよ』の主人公の姿はそれをはっきりと示しています)。

このようにわれらは自力で生きているのですが、それはしかしわれらが「わたし」を仮説(けせつ)しているからであると説くのが仏教です。

われらは仮に「わたし」がある〈かのように〉生きているということです。これはそうすることが正しいとか間違っているとかということではなく、われらはどういうわけかそのような仮説のもとで生きることになっているのです。それはわれらがどういうわけか直立二足歩行で生きているのと同じことです。ただ、直立二足歩行は見て分かりますが、「わたし」を仮説して生きていることを自分で見ることはできません。それは「わたし」の外から気づかせてもらうしかありませんが、その「わたし」の外が「無量のいのち」すなわち阿弥陀仏であると説くのが浄土の教えです。これが他力の教えです。他力とは自力を否定することではなく、われらは「わたし」を仮説して自力で生きていると気づかせてもらうということです。

われらは否も応もなく「わたし」を仮説して自力で生きざるをえませんが、そのことに気づかせてもらっていることでは他力のなかにあるのです。


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安楽浄土をねがひつつ [親鸞の和讃に親しむ(その22)]

(2)安楽浄土をねがひつつ

安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがひて 辺地懈慢(へんちけまん、方便化土)にとまるなり(第67首)

浄土往生ねがいつつ、他力の信をえぬひとは、仏の智慧をうたがって、仮の浄土にすえおかる

安楽浄土を願っているということは、魂の救いを求めているということですが、そうでありながら、悲しいかな「他力の信」がなく「仏智不思議をうたが」いますと(この二つは別のことではありません)、いつまでも魂の救い(往生)はえられないと詠います。さてしかし「他力の信」がなく「仏智不思議をうたが」うとはどういうことを指しているのでしょう。それは、魂の救いは「ここではない何処か」にあり、それを自分で探し求めなければならないと思っているということです。ぼくの頭に浮ぶのはあのチルチルとミチルの兄妹です。

彼らは青い鳥という名の幸福を求めて様々な世界を彷徨い歩くのですが、どこにも見つからず、悄然として家に戻ってくると、何とそこにはもうとうの昔から青い鳥がいたというお話です。本願他力という救いは「いまここ」にあるにもかかわらず、それに気づかずに(これが「他力の信」がなく「仏智不思議をうたが」うことです)、「ここではない何処か」にあるはずと探し歩く、これが「自力作善のひと」(『歎異抄』第3章)です。その人は「ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」(同)と言わなければなりません。それが「辺地懈慢にとまるなり」ということです。仮の宿にとまるしかないのです。

救いは「いまここ」にしかないということは、言い換えれば、「もうすでに救われている」ということです。これから何かをして救いを手に入れるのではなく、このままでもう救われているということ。「おいおい、いま救いがないと思うから、それを求めているのでないか、もうすでに救われているなら、それを求めることなんかないよ」という抗議の声には、こう答えましょう。「あなたは“あなたのいのち”であるままで、もうすでに“ほとけのいのち”を生きています。なのにあなたはそのことに気づかず、どこかにあるはずの救いを求めているのです」と。


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