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三途苦難ながくとぢ [親鸞の和讃に親しむ(その14)]

4.三途苦難ながくとぢ

三途苦難ながくとぢ 但有自然快楽音(たんうじねんけらくおん) このゆゑ安楽となづけたり 無極尊(むごくそん)を帰命せよ(第46首)

波の妙なる音がして、三途の苦悩どこへやら。安楽とこそいうゆえん。阿弥陀如来に帰命せん

この前後の和讃は浄土の荘厳(素晴らしいしつらい)を詠っていますが、この和讃でもまた浄土には苦難はなく快楽の音ばかりであると、浄土は安楽の世界であることが讃歎されます。『大経』においても、浄土が安楽に満ちた世界、極楽世界であるかが、これでもかと讃えられますが、さて正直なところ、そこは読んでいてもっとも退屈するところです。親鸞はそのあたりをどう見ていたのか気になるところですが、ひとつの手がかりになりそうなのが、第35首に「七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり」とあることです。浄土の講堂は七宝で飾られ、また浄土の菩提樹はその高さが四百万里、その根本の周囲が五十由旬あるとされますが、これらは「方便化身の報土」であると言われるのです。また『教行信証』において、真の浄土のありようを説く「真仏土巻」では、『大経』の浄土讃歎の文は引用されず(もっぱら『涅槃経』が引かれます)、仮の浄土を説く「化身土巻」で浄土の道場樹が取り上げられています。

これらのことから、親鸞にとっての浄土とは「ここを去ること十万憶刹」(『大経』)のアナザーワールドではないことが推察されますが、さてでは浄土とは何か。われらは浄土の「土」ということばに囚われ、「ここ」とは別の「空間」を思い浮かべてしまいますが、「時間」にせよ「空間」にせよ(ここで突然カントを持ち出すことが許されますなら)、それらはわれらが世界を見るときに便宜上もちいている図式にすぎません。われらはこの世界を時間的・空間的に見るよう仕組まれているのであり、だからこそこの世界は時間的、空間的な構造をしているのです。そして浄土を考えるときもこの図式にしたがい、浄土は「ここ」とは別の「空間」であると思ってしまうのですが、それは時間、空間に囚われた見方であると言わなければなりません。

浄土とは「安心(あんじん)のあるところ」であり、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(『親鸞聖人消息集』第11通)のです。


タグ:親鸞を読む
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